戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 戦国人物一覧

戦国人物解説

大谷吉継(おおたに-よしつぐ)朝鮮出兵時に深まる?三成との友情

目次

プロフィール詳細:1.越前敦賀城主 2.出羽奉行 3.文禄の役

4.朝鮮奉行 5.清正との対立 6.和議七ヶ条 7.第二次晋州城の戦い

8.和議の破たん 9.関ヶ原前夜 10.最期相関図参考文献関連記事

プロフィール

大谷吉継
Yoshitsugu Otani

越前(福井県)敦賀(つるが)城主。幼名は紀之介。

秀吉刀狩令が発布されると、出羽奉行として米沢城(山形県)の伊達政宗や仙北(秋田県)での上杉景勝軍の刀狩を監察した。

文禄の役では、朝鮮奉行として石田三成・増田長盛らと共に渡海。碧蹄館幸州山城第二次晋州城の戦いに加わる。

また、咸鏡道で強硬姿勢を崩さない加藤清正を非難する。

関ヶ原の戦いでは、友人の三成側に属し、ハンセン病を患っていたので輿(こし)に乗って出陣する――

享年42(1559-1600)。三成より一つ年上。 徳川家康より16歳年下。

詳細

1.越前敦賀城主

文禄年間 近畿諸大名配置図
図1:文禄年間 諸大名配置図_近畿地方周辺

大谷吉継吉継の父は、豊後の国主・大友宗麟の家臣・大谷盛治と言われています。

吉継は、豊臣秀吉羽柴秀吉の小姓として信任を得て、天正一一年(1583)二五歳の時に賤ヶ岳の戦い(VS柴田勝家柴田勝家)で軍功をあらわし、同一三年に従五位下刑部少輔。

同一五年の九州征伐には石田三成石田三成と共に兵站奉行を務め、同一七年三一歳の時に越前(福井県)敦賀(つるが)城主となりました。

2.出羽奉行

秀吉が天正一六年(1588)に刀狩令を発布。

天正一七年(1589)に九州の刀狩があり、東北地方の刀狩は翌年の小田原落城奥州仕置と共に広がっていきました。秀吉の奉行として出羽の仕置きをすすめていた吉継は、米沢城の伊達政宗伊達政宗に城の破却と武具狩りはどうなっているのか圧力をかけました。また出羽の仙北(秋田県横手地方)において上杉景勝上杉景勝軍の刀狩を監察。

上杉軍の目的は武装解除の方にありましたが、秀吉の刀狩の目的は兵農分離の方にありました。これにより上杉方で没収した刀・弓矢・鉄砲を含む武器四四七三点のうち、秀吉方は全体の半数余り、侍のシンボル・刀だけ受け取りました。

3.文禄の役

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役の始まり
吉継は朝鮮奉行として渡海。

豊臣秀吉豊臣秀吉明国制圧の野望により文禄元年(1592)四月一三日、小西行長小西行長を先鋒とした日本の諸将朝鮮へ侵攻

日本軍は破竹の勢いで北上して僅か半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧。

このころ、肥前名護屋では秀吉が自身も朝鮮へ渡海すると言い、これを浅野長政浅野長政徳川家康徳川家康前田利家前田利家が秀吉を制止。しかし石田三成は、秀吉が渡海せねば事は成就しないと主張。

秀吉の前で激論となり、家康らは秀吉の万一の事あれば天下は相果てると主張すると、秀吉もこれに納得しました(等持院文書)。

4.朝鮮奉行

秀吉は朝鮮渡海を諦めた代わりに、朝鮮奉行として増田長盛・三成・吉継・前野長康・長谷川秀一の五人を派遣することにしました。

朝鮮奉行は、秀吉から朝鮮支配においての代官支配をもって諸大名に割り付け、朝鮮農民に対しての年貢の取り立てなどの指示を受け渡海。同年七月一六日にソウルに着陣しました。

文禄の役地図・石田三成
図4:文禄の役 終盤戦

これに先立ち、小西行長・宗義智宗義智らはソウルから更に北上して同年六月十五日、平壌を制圧。翌年一月六日、朝鮮の来援として明提督李如松が四万の兵を率いて小西・宋らが籠る平壌城を包囲

小西・宋らは平壌から敗走し、同年一月一七日にソウルへ帰陣。平壌敗北は、ソウルの日本軍に衝撃を与えました。

この勢いに乗ったは李如松は、都ソウル・漢城の襲撃を目指して南下。これを先鋒隊の立花宗茂立花宗茂小早川隆景小早川隆景が同月二七日、ソウルの北方の碧蹄館で迎撃。続いて本隊の黒田長政黒田長政に三奉行の増田長盛・三成・吉継らも加わりました。

一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。ソウルの日本軍は幸州山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりました。

先鋒隊は小西行長、二番隊は三成・増田・大谷の三奉行、これに黒田長政・宇喜多秀家宇喜多秀家小早川隆景小早川隆景らが続く布陣。激戦の末、日本軍は権慄率いる朝鮮軍に敗退。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

5.清正との対立

清正の咸鏡道支配
図5:清正の咸鏡道支配

さてこのころ、第二軍の加藤清正加藤清正鍋島直茂鍋島直茂は、朝鮮東北の咸鏡道(ハムギョンド)制圧。しかし義兵抗争が活発化すると敗北しました。

しかし清正は咸鏡道は静謐であると主張。吉継は直茂に対し、清正に加担しないよう伝えました。

清正はまた、自分のように小西行長が平壌で置目・法度を徹底させれば明への侵入が可能とし、自分を持ち上げて小西を非難しました。

これに朝鮮奉行の増田・大谷らは、清正の敗北が明軍に知れ渡ってしまったので、これに勢いづいた明軍が平壌の戦いで勝利になったと清正を非難。

ここに三成と豊臣奉行衆VS清正と豊臣武功派と対立構造が出来上がっていくのでした。

6.和議七ヶ条

文禄二年(1593)二月、清正と直茂がソウルへ帰陣。一時中断していた小西行長と沈惟敬との和議の会談は三月一五日に再開されました。半月後、行長と加藤清正、沈惟敬の会談で和議の条件がまとまりました。

かくして三成・吉継・増田の三奉行と小西行長・宋義智は、明の使節・謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に到着。しかしこの使節は明皇帝から任命された公式使節ではなく、明の官人宗応昌が仕掛けたスパイでした。

五月一五日、秀吉は名護屋で明の使節(汗)の謝用梓・徐一貫に和議七ヶ条を提示。その内容は、明の皇女を日本の天皇の后にすること、勘合貿易の復活などでした。

7.第二次晋州城の戦い

第二次晋州城の戦い
図6:第二次晋州城の戦い

秀吉は、幸州山城の戦いで朝鮮軍に敗れたソウルの日本軍の撤退の許可を与える代わりに、前年に敗れた晋州城再び攻撃することを厳命。

これにより同年六月、第一隊・加藤清正・黒田長政、第二隊の小西行長・宗義智、第三隊の宇喜多秀家・三成・吉継ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

一一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

8.和議の破たん

さて、秀吉が名護屋で明の使節(汗)に示した「和議七ヶ条」は明側が飲み込める内容ではなかったので、一時停戦時に小西行長小西行長沈惟敬は秀吉の窺い知らぬ所で秀吉の降伏文書を作成。

行長の家臣・内藤如安は、この降伏文書を携えて北京に向かい、明の皇帝に恭順を誓いました。後日、秀吉に露見して大きな怒りを買いますが、小西の命が助かったのは、朝鮮奉行である三成・吉継・増田長盛も同意の上だという証拠の文書を差し出したためと言われています。

9.関ヶ原前夜

慶長三年八月に秀吉が死去し、これにより朝鮮の日本軍が撤退。徳川家康徳川家康が天下取り動き出します。

吉継は家康の会津征伐の軍に従うため敦賀を発(た)ち、使者を佐和山の三成のもとに送って共に軍に従わんことを求めました。しかし三成は吉継を佐和山に迎えて家康討伐の計画を打ち明けました。

吉継は三成が横柄で人望がないのに対し、家康は仁愛の心が厚く、臣下からの父母のごとく親しまれている点などを挙げて三成を諫めました。しかし三成の決心は固く、逆に説得されて、三成と行動することに。

かくして吉継は敦賀に引き返して兵を挙げ、前田利長の軍と戦ってこれを破り、家康が会津征伐の途中から軍を引き返して西上した報を聴くと関ヶ原へ向かいました。

10.最期

吉継はハンセン病を患っており、慶長五年(1600)九月、輿(こし)に乗っての関ヶ原出陣となりました。

吉継軍の隣りは小早川秀秋小早川秀秋軍。三成と吉継は当初より、秀秋は裏切るかもしれないことを織り込み済みで戦いに挑みました。

吉継軍は一旦は、藤堂高虎藤堂高虎京極高次京極高次らの軍を退けましたが、ついに秀秋が裏切り吉継軍めがけて攻撃。吉継は動揺することなく、自分の兵力の何倍もの小早川軍を追い返してしまいました。

しかし秀秋に便乗して、脇坂安治脇坂安治らの軍も裏切ります。そこまでは誰も計算に入っていませんでした。吉継軍配下の戸田重政軍と平塚為広軍は、吉継軍と共に最期まで絶望的な状況の中を戦いました。

武運つきた吉継は家臣の湯浅五介という者に命じて自害しました。享年四二

大谷吉継 相関図

豊臣政権

主君:豊臣秀吉豊臣秀吉

大親友:石田三成石田三成

出羽の刀狩

伊達政宗伊達政宗上杉景勝上杉景勝を監察。

文禄の役

支援:小西行長小西行長沈惟敬/非難:加藤清正加藤清正

ライバル:明軍の李如松・朝鮮軍の権慄

関ヶ原の戦い

吉継軍攻撃:藤堂高虎藤堂高虎京極高次京極高次ら

裏切り:小早川秀秋小早川秀秋脇坂安治脇坂安治

  

参考文献

関連記事

大谷吉継

素材:肖像対い蝶家紋軍旗/イラスト:リアル型破り頭巾with三成ほっこり