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戦国講座

石山合戦 顕如と織田信長との死闘の11年

目次

顕如とは第一期:1.反信長包囲網

第二期:2.延暦寺焼き討ち 3.長島一向一揆の連勝 4.義昭と信玄動く 5.浅井・朝倉攻め

第三期:6.長島一揆勢を焼き殺す 7.越前一向一揆 8.加賀一向一揆

第四期:9.雑賀衆の鉄砲 10.木津川口海戦 11.本願寺が東西に分かれる

一向宗徒は何故強いのか相関図参考文献関連記事

顕如とは

本願寺顕如
Kenyo Honganji

顕如(けんにょ,1543-1592)は、本願寺十世法主証如(しょうにょ)の長男。証如死去により一二歳で一一世を継承しました。

本願寺は浄土真宗本山で、一向宗は浄土真宗のこと。一向(ひたすら)に阿弥陀如来を念ずる宗派の意で、主に他の宗派からの通称です。

すなわち顕如は、一向宗徒を傘下に収める本願寺教団のお頭(かしら)でした。

織田信長織田信長は、瀬戸内海航路に便利な本願寺の地・石山に城を築きたいと思い、顕如に石山を明け渡せと申し出ました。顕如はこれを断りました。

第一期(元亀元年)

1.反信長包囲網

反信長包囲網_勢力図
図1:反信長包囲網_勢力図

元亀元年(1570)七月、松永久秀に三年前に敗れた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は畿内での力を取り戻そうと、阿波(徳島)を出て摂津(大阪・兵庫)に入りました。その数、七、八千。

これを討伐するため信長は八月、数二万~六万の兵を従え岐阜を出発。これに将軍足利義昭足利義昭、三好義継、松永久秀なども加わりました。

信長軍は本願寺近くの川口に砦を築きました。この攻撃態勢は、いつ本願寺に向けられてもおかしくなく、危機を感じた顕如二八歳は「仏敵信長」と門徒(一向宗徒)に戦いを指示。

九月顕如は、六月の姉川の戦いで信長に敗れた浅井長政浅井長政 朝倉義景朝倉義景からの働きかけに応じ、一〇月には三好三人衆と手を結びました。

則ち、元をただせば松永久秀のせいで?顕如と信長との一一年にも及ぶ石山合戦が始まったのでした。

第二期(同二年~天正元)

2.延暦寺焼き討ち

石山合戦_地図
図2:石山合戦_地図

比叡山にある天台宗の総本山・延暦寺(滋賀県)は、寺領、権力、武力を誇っていました。

また比叡山は、尾張・美濃と京を結ぶ要所にあり、その確保のため信長は寺領を没収。延暦寺宗徒はこの事態に驚き、浅井・朝倉氏に通じるに至りました。

同年一〇月、本願寺の指示どおり浅井長政・朝倉義景が、三万の軍を従えて比叡山に陣を敷きました。信長は比叡山に対して、信長に味方しなければ焼き払うと警告。僧は応じず、両軍は志賀郡(琵琶湖南西岸一帯)で対陣を続けました。

長島一向一揆に連敗した信長は、翌元亀二年(1571)一〇月に門前坂本より比叡山上にかけて放火と殺戮を行いました。

これにより根本中堂や山王二一社をはじめとする建物ほか寺宝や古文書類を失いました。僧俗、児童、智者、上人一々に首を切り、犠牲者は三〇〇〇人及んだといいます。美女や小童も多く捕らえられ、信長の前に連れて来られ、悪僧の儀は是非に及ばず、私たちは助けてくださいと懇願しましたが、信長は許さず首を打ち落とされました。

信長死後、豊臣秀吉豊臣秀吉徳川家康徳川家康の寄進を得て復興、寛永には元の景観になりました。

3.長島一向一揆の連勝

信長が浅井・朝倉攻めの最中に、顕如の命令で伊勢(三重県)長島の一向一揆は尾張に侵攻。元亀元年(1570)一一月、尾張小木江城を攻め落とし、城主で信長の弟・信興(のぶおき)を自害させました。

追い詰められた信長は正親町天皇正親町天皇や足利義昭足利義昭に頭を下げて同年一二月、浅井・朝倉との和議にこぎ着けました。しかし翌年三月、三好義継と松永久秀・久通父子が信長への敵対行動をあらわにしました。

同年五月、信長は信興の弔い合戦のため、伊勢長島の一揆を攻めました。結果、織田軍が再び惨敗。織田軍の氏家卜全(ぼくぜん)は討死、柴田勝家柴田勝家は負傷しました。

一向宗徒は何故強いのか。それは寺内町というアジールの形成にあります。

4.義昭と信玄動く

将軍足利義昭足利義昭は、支援者であった信長と次第に対立。元亀三年(1572)九月信長は義昭に対して一七カ条の異見書を通して諫言(かんげん)したことにより、両者の不和は決定的になりました。

三方ヶ原の戦い

延暦寺焼き討ちなどは、代々天台宗を信仰してきた甲斐の武田信玄武田信玄の怒りもかっており、義昭は信玄を味方につけて、信長の同盟軍である徳川家康徳川家康を攻撃させました。信長は反信長包囲網を敷かれ動けなかったため、佐久間信盛滝川一益ら三〇〇〇の兵を(静岡県)三方ヶ原に送りました。

信玄死去と幕府滅亡

義昭は信玄に上洛を促し、同年一二月に三方ヶ原で家康を破った信玄は、北条方の援軍を合わせて三万の大軍をもって西上。信玄の快進撃に快くした義昭は二月、文書で浅井長政・朝倉義景に挙兵の意思を表明し、将軍邸をかためました。

信長は義昭に和議を求めましたが、義昭が応じなかったため天正元年(1573)四月二日・三日に将軍邸(二条城)を包囲。一二日には信玄が信州駒場で病死。かくして二八日、信長と和睦した義昭でしたが、打倒信長と再び挙兵。同年六月信長は義昭を京から追放し、ここに足利幕府が滅びました。

5.浅井・朝倉攻め

同年七月、信長は嫡男織田信忠信忠を連れて湖北(琵琶湖の北)に侵攻。これが信忠の初陣でした。軍勢を各地に動かし、放火の限りをつくし、逃げる近郷百姓も攻め、また田畠の作物刈りとりました。

朝倉軍を壊滅させて八月二〇日、義景自害。小谷城の浅井氏は完全に孤立し、九月一日に長政も自害しました。

同年九月、信長は六万の軍勢を率いて伊勢長島を攻め、北伊勢方面の一向宗徒を次々に討ち破って白木城を陥落させました。しかし長島城を攻めきれず、滝川一益に後をたくし大垣へ帰りました。

京を追われた足利義昭は三好義継の河内(大阪府)若江城に居ましたが、一一月にここを出て堺に移りました。若江城の義継は佐久間信盛らの攻撃を受け、一六日に自害。大和多聞城に立て籠もっていた松永久秀は、信長が命を奪うことを惜しみ、久秀は服属して城を明け渡し、大和信貴山城を安堵されました。

第三期(天正二~三年)

6.長島一揆勢を焼き殺す

同二年(1574)七月、信長は嫡男織田信忠信忠を従えて、三度目の長島討伐のため岐阜を出発。

九鬼嘉隆九鬼嘉隆に命じ、水軍をもって長島城を包囲して兵糧攻めにしました。長島の者は降伏して、船に乗って退去しようとしましたが、織田方の攻撃で大半が撃たれ、長屋・中江の城にこもっていた男女併せて二万人は火をかけられて殺されました。

長篠の戦い

信玄死後の三ヶ月後、家康が兵を従えて武田方の三河長篠城を包囲。家康は長篠城を手に入れましたが、これを奪還すべく武田勝頼武田勝頼が長篠城を包囲。家康は信長に援軍を依頼。同三年(1575)五月に長篠の戦いがおこり織田・徳川連合軍は鉄砲をもってして武田騎馬隊を破り、一年半前の三方ヶ原の雪辱を晴らしました。

7.越前一向一揆

同年七月信長は、顕如と繋がりのある越前(福井県)の一向一揆を徹底的に攻撃。

ここでも徹底した虐殺行為が展開され、四方八方へ軍勢を派遣して山々谷々まで残る所なく捜(さが)し出し首をきり、犠牲者は三万以上にのぼりました。

8.加賀一向一揆(同年)

同年八月、信長は加賀に軍を進め、明智光秀明智光秀・秀吉・細川藤孝細川藤孝らが加賀に入り入りました。

(加賀の一向一揆は天正七年(1579)八月柴田勝家によって滅ぼされ、同八年本願寺の降伏などがあり、翌年門徒三〇〇余人が磔刑に処せられました。)

織田軍が加賀に攻め入ったことにより本願寺側が危機となり、今度は顕如の方から信長に和議を申し出ました。しかし顕如は裏で、紀州(和歌山県)鉄砲集団・雑賀衆(さいかしゅう)に加え、足利義昭と毛利輝元毛利輝元と手を結び、再び信長と対決する準備を進めていました。

第四期(天正四~八年)

織田軍は自ら申し出ておいて和議を反故(ほご)にした顕如に対して、信長は軍勢を大坂に派遣。五年にわたる石山籠城戦がここに始まりました。

火縄銃

9.雑賀衆の鉄砲

天正四年(1576)四月荒木村重・細川藤孝・明智光秀らが摂津(大坂府)を攻撃。しかし原田直政が雑賀(さいか)衆の鉄砲にあたり討死、更に織田軍は自軍の天王寺砦を包囲されてました。

この報せを聞いた信長は五月、自ら出陣。先陣は佐久間信盛松永久秀・細川藤孝ら、第二陣は滝川一益丹羽長秀丹羽長秀豊臣秀吉羽柴秀吉、第三陣は信長本隊。

この戦いは一一年にわたる石山の戦いのなかで最も大きな激戦となり、信長自身も戦闘に加わり、足に鉄砲傷を受けながら奮戦。然しながら海上封鎖できず退却しました。

翌年三月、信長・信忠父子が出陣し、雑賀一揆を平定しました。

水軍

10.木津川口海戦

第一次:毛利水軍の活躍

京を追われた足利義昭は天正四年(1576)二月、毛利領の備後(広島県)鞆(とも/福山市)に移りました。義昭を迎え入れた毛利輝元は七月、能島・因島村上水軍を従え、石山本願寺に兵糧を運ぼうとしました。織田水軍三〇〇艘はこれを阻止できず、毛利水軍は防衛線を突破しました。

上杉謙信との戦い

信長は信玄西上を恐れて上杉謙信 上杉謙信と同盟。しかし謙信は二度も上洛、朝廷や将軍家などを擁護する側にあり、義昭を追放した信長との同盟を絶ち、討伐することを決心しました。

能登に侵攻して同五年(1577)九月に能登七尾城を落とし、加賀に進駐した織田軍と加賀の湊川(手取川)で戦い撃破。毛利氏と連合して信長と対決しようとしましたが、翌年三月、春日山城にて病死しました。

松永久秀と荒木村重の謀反

松永久秀雑賀衆との戦いで織田方として奮戦。同年一〇月に謀反を起こし、大和国(奈良県)信貴山(しぎさん)城に立てこもりました。信忠が数万騎をもってこれを攻め、自害しました。

本願寺攻めの大事な拠点であった摂津有岡城主荒木村重もまた雑賀衆との戦いで奮戦、しかし同六年(1578)一〇月に謀反を起こしました。織田の有岡攻めは長期戦になり、翌年一一月有岡城開城となりました。

第二次:織田軍甲鉄船の登場

雑賀衆を倒した織田軍は、毛利水軍を攻撃。九鬼嘉隆九鬼嘉隆は信長の命令で甲鉄船六艘を建造。これに滝川一益の一艘、来島村上水軍来島通総来島通総を従えた三〇〇艘で同年一一月、無敵の毛利水軍六〇〇艘を破りました。信長はようやく、毛利から運ばれてくる本願寺の補給路を断つことに成功しました。

11.本願寺が東西に分かれる

天正七年(1579)八月、加賀の一向一揆は柴田勝家によって滅ぼされました。この報せに一二月に顕如は降伏して、翌年四月に石山本願寺を去り、紀伊鷺森(さぎのもり)に移りました。

しかし顕如の長男・教如(きょうにょ)が信長に対抗、再挙を企て失敗に終わります。顕如はそんな教如と縁を切り、三男の准如(じゅんにょ)を次の法主に決めます。こうして東本願寺は教如で、西本願寺が准如と本願寺は分かれました。

顕如が後にした石山の地には、のちに豊臣秀吉が大坂城を建てました。顕如、享年五〇。

  

一向宗は何故強いのか

寺内町とは

中世末期、一向宗寺院の境内に発達した集落を寺内町(じないちょう、じないまち)と言う。

寺内町の多くは、海岸や河川に囲まれた地域が多い。伊勢長島は木曽三川に囲まれた海抜ゼロメートル地帯である輪中地帯に位置。木曽三川の反乱と塩害に悩まされる地理的条件を逆手にとって信長に対抗しうる強固なアジールを形成していた。[文献5]

顕如 相関図

ライバル

織田信長織田信長

味方

浅井長政浅井長政 朝倉義景 朝倉義景足利義昭足利義昭武田信玄武田信玄毛利輝元毛利輝元

僧侶

禅林: 西笑承兌藤原惺窩金地院崇伝板倉勝重

天台宗:南光坊天海

参考文献

  1. 奈良本辰也 (監修), 主婦と生活社 (編集) 『戦国武将ものしり事典 』(主婦と生活社、2000年)
  2. 池上裕子『織田信長 (人物叢書)』(吉川弘文館,2012)
  3. 京都信長研究会 『織田信長―スーパー情報ガイドブック』(データハウス、1991年)
  4. 児玉幸多 (編集)『日本史年表・地図(2016年版) 』(吉川弘文館、2016年)
  5. 桜井進『江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス) 』(日本放送出版協会、2000年 )
  6. 戦国覇王』戦国大名篇(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)

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