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戦国武将解説

徳川家康(とくがわ-いえやす)

プロフィール

徳川家康
Ieyasu Tokugawa

愛知県出身。幼名は竹千代。江戸幕府初代将軍。

家康が織田信雄を助け、秀吉と戦った小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉は家康に敗れるが、政治面では秀吉が勝ち、豊臣政権が誕生した。

しかしこの敗戦は後を引き、豊臣政権下にあって家康の関東だけ治外法権状態に。太閤検地も刀狩も関東ではなしえなかった。

朝鮮の役にも徳川は兵を出さずに、朝鮮の役で疲弊する豊臣の武将らを尻目に、徳川は力を温存する。そして時を得た徳川家康59歳、関ヶ原に挑む。

享年75(生1542-没1616)。

織田信長より9つ、豊臣秀吉より6つ年下、柳成龍と同い年。

詳細

1.お墓は世界遺産

徳川家康徳川家康の孫、徳川家光家光は言わずと知れたグランドファザコンで家康の墓、日光東照宮を世界遺産に登録される程に大造営したわけですが、これをやったお陰で徳川家の財産、半分はなくなってしまいました。

さて、家康は幼少時代、人質として今川義元今川義元の屋敷にいました。人質とはいっても、今川家できちんとした教育を受け成長しました。

桶狭間の戦いで今川家が織田信長織田信長に敗れて滅亡。家康、ついに独立します。

2.武田信玄に敗北

独立後の家康は信長と同盟を組み、信長を支えました。家康が武田信玄武田信玄の上洛を阻止すべく戦った、家康VS信玄の三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)では、家康生涯一度の負けいくさとなりました。

この時、信長は家康を助けたくても本願寺顕如や朝倉・浅井たちに囲まれて動けない状態でした。

3.豊臣政権の誕生

慶長前期 諸大名配置図
図1:慶長前期 諸大名配置図

信長が本能寺の変で倒れると家康は、豊臣秀吉豊臣秀吉にくだります。この時点では、まだ天下を取ることができませんでした。

秀吉の時代は、五大老という豊臣政権トップの職につきました。五大老の中には秀吉からの信頼が厚い、前田利家前田利家もいて、天下をはく奪することもできず、家康、我慢の日々でした。

4.五九歳で挑む関ヶ原の戦い

秀吉が亡くなると、それを追うように利家も死にます。天下人になるチャンスがやっと巡ってきました。しかし、思いもよらぬことに、豊臣政権を支えてきた石田三成石田三成が、あっと言う間に反徳川包囲網を全国に張り巡らせてしまいました。

家康59歳。覚悟を決めて、天下分け目の関ヶ原の戦いに挑むことになりました。なんとか関ヶ原で勝利した家康は、晴れて天下人に。

5.七四歳で挑む大坂の陣

しかし、まだ大坂城には秀吉の子・豊臣秀頼豊臣秀頼がいました。弱体化した大坂城ですが、念のため、豊臣方を完全に滅ぼすことにしました(大坂の陣)。しかし豊臣方の真田幸村真田幸村らが意外にも奮戦し、最後までひやひやさせられた、74歳の時、豊臣家を滅ぼしました。そして翌年、駿府城で75歳の生涯を閉じました。

6.三百年の平和を築いた巨人

家康が、戦争のない江戸幕府三百年をつくりあげた功績はただならぬものがあります。文禄慶長の役あと、僅か十年で宗義智宗義智景轍玄蘇景轍玄蘇らと共に日朝国交回復を成し遂げた功績はもっと注目されてよいでしょう。

また江戸時代に古文書がたくさん残っているのも、江戸時代にいくさがなかったからなのです。江戸時代の平和を俗に英語で「パクストクガワーナ」と言います。

さて、鷹場に鷹狩り大好きの家康が来た時、農民の身分でも思い切って、まつりごとについて要望を伝えると、結構聴いてくれることが多いです。 なので家康に頼みごとする時は駕籠訴(かごそ)もOK、鷹狩りを狙っていこう!

徳川家康相関図

家族

息子:徳川秀忠徳川秀忠/孫:徳川家光徳川家光  

義理の娘(家光の母):お江(小督、江与)素材お江/家光の乳母:春日局春日局

家臣

側近:本多正信/ブレーン:南光坊天海金地院崇伝林羅山板倉勝重

徳川四天王:本多忠勝本多忠勝榊原康政榊原康政井伊直政井伊直政酒井忠次酒井忠次

家康を裏切った元家臣:石川数正 /旗本:大久保彦左衛門

ライバル

石田三成石田三成真田昌幸真田昌幸真田幸村真田幸村淀殿(茶々)素材淀殿(茶々)豊臣秀頼豊臣秀頼  

豊臣政権下の同僚:五大老

前田利家前田利家宇喜多秀家宇喜多秀家毛利輝元毛利輝元上杉景勝上杉景勝

その他

仲良し:浅野長政浅野長政/日朝国交回復:宗義智宗義智景轍玄蘇景轍玄蘇

  

関連トピック

徳川家康

素材:肖像葵紋軍旗/史跡:二条城名古屋城関ヶ原合戦場家臣団

イラスト:描き方リアル年末シルバー漫画年賀状夕涼み