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戦国人物解説

徳川家康(とくがわ-いえやす)何した人?朝鮮国交回復と琉球侵攻

目次

序文プロフィール詳細:1.徳川氏系譜 2.我儘な人質

3.三方ヶ原の戦い 4.長篠の戦い 5.秀吉との関係

6.関ヶ原と大坂の陣 7.通信使と琉球侵攻

一族祖先子ども家臣参考文献関連記事

序文

材料の清浄もなければ釣合の美しさもない、およそ建築を意味するものはひとつもない。東照宮について_ブルーノ・タウト(建築家)

プロフィール

徳川家康
Ieyasu Tokugawa

江戸幕府初代将軍。三河国(愛知県)岡崎出身。幼名は竹千代。

家康が信長遺児の信雄を助け、羽柴秀吉と戦った小牧・長久手の戦い。秀吉は家康に敗れるが、政治面では秀吉が勝って豊臣政権が誕生。

しかしこの敗戦は後を引き、豊臣政権下にあって家康の関東だけ治外法権状態に。太閤検地も刀狩も関東ではなしえなかった。

文禄・慶長の役には兵を出さずに力を温存。時宜を得た家康59歳、関ヶ原に挑む――!

享年75(1542-1616/将軍在職1603~1605)。

同い年は柳成龍九鬼嘉隆信長より9つ、秀吉より6つ年下。

詳細

1.徳川氏系譜

東海地方_戦国時代地図
図1:東海地方_戦国時代地図

徳川家康家康の孫・徳川家光家光はグランドファザコンで、東照大権現として家康を祀る霊廟・日光東照宮を大造営。世界遺産にも登録されています。

徳川氏の始祖は松平親氏(徳阿弥)で、九代目の家康が先祖を新田源氏として系図を詐称し、徳川を名乗りました。

岡崎城主の祖父・松平清康は西三河を平定しましたが、二五歳の時に家臣に暗殺されました。このため父・松平宏忠は岡崎城を追われ、駿府(府中)の今川義元今川義元の援助を受けるため天文一六(1547)長男の竹千代(家康)六歳を人質として駿府に送りました。

2.我儘な人質

しかし途中織田信秀(信長父)の手に奪われ、竹千代は二年半を尾張で過ごしました。竹千代八歳のときに父宏忠二四歳が家臣に暗殺され、これを機に織田と今川で捕虜の交換があり、竹千代は今川義元のもとで一一年の人質生活を送りました。

人質とはいっても、家庭教師には義元軍師にして高僧の太原雪斎が付けられました。元服の際は義元の一字をもらい元信(もとのぶ)と名乗り、義元の姪を正室に迎えるなどの厚遇を受けました。

また日常的に鷹狩に興じ、駿府郊外の増善寺において、ここで鷹狩りをしたいとただをこね始めました。そもそも寺は殺生禁止。供の者が困っているのを見かね、出てきた等膳(とうぜん)和尚に一喝されました。

母の於大(おだい)の方は、家康三歳の時に宏忠と離縁。離別後、永禄三年(1560)家康一九歳と初めてとあった直後に、桶狭間で義元が織田信長織田信長に敗れて戦死。これを機に家康は独立しました。

3.三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い対陣図
図2:三方ヶ原の戦い対陣図

独立後、家康は信長と同盟を組み、信長を支えました。同一一年(1568)足利義昭足利義昭は将軍就任後、その支援者であった信長と次第に対立。

信長の延暦寺焼き討ちなどは甲斐の武田信玄武田信玄の怒りもかっており、義昭は信玄を味方につけて、信長の同盟軍である家康を攻撃させました。

この頃、信長は本願寺顕如によって反信長包囲網を敷かれ動けず、元亀三年(1572)一二月に三方ヶ原で家康を破った信玄は、北条方の援軍を合わせて三万の大軍をもって西上しました。

4.長篠の戦い

しかし天正元年(1573)四月信玄が信州駒場で病死。信玄死後の三ヶ月後、家康が兵を従えて武田方の三河長篠城を包囲。家康は長篠城を手に入れましたが、これを奪還すべく武田勝頼武田勝頼が長篠城を包囲しました。

家康は信長に援軍を依頼。かくして同三年(1575)五月に長篠の戦いがおこり織田・徳川連合軍は鉄砲をもってして武田騎馬隊を破り、一年半前の三方ヶ原の雪辱を晴らしました。

5.秀吉との関係

信長が本能寺の変で倒れると、家康は信長の遺児・織田信雄信雄を助け、豊臣秀吉羽柴秀吉天正一二年(1584)四月に小牧・長久手[1]で争いました。秀吉四八歳は家康四三歳に敗れましたが、政治面では秀吉が勝って豊臣政権が誕生。

しかしこの敗戦は後を引き、豊臣政権下にあって家康の関東だけ治外法権状態に。太閤検地も刀狩も関東ではなしえませんでした。また七年にも及ぶ文禄・慶長の役に徳川は一兵を出さずに、この役で疲弊する豊臣の武将らを尻目に力を温存しました。

6.関ヶ原と大坂の陣

慶長前期 諸大名配置図
図3:慶長前期 諸大名配置図

慶長の役の只中に秀吉が死去。天下人になる機会がようやく巡ってきました。

しかし豊臣政権を支えてきた石田三成石田三成が、あっと言う間に反徳川包囲網を全国に張り巡らせてしまいました。本願寺顕如による、かつての反信長包囲網を彷彿されるようですが、慶長五年(1600)家康五九歳、覚悟を決めて天下分け目の関ヶ原の戦いに挑みます。

周知のとおり関ヶ原で勝利した家康は、系譜を詐称し将軍となって江戸幕府を開きました。

しかし大坂城には秀吉の遺児・豊臣秀頼秀頼が存命。弱体化した大坂城ですが、念のため豊臣方を完全に滅ぼすため挙兵。大坂で争うこととなりました。

然しながら、豊臣方の真田幸村真田幸村らが思いのほか大奮戦。最後までひやひやさせられたましたが、ようやく豊臣を滅ぼした翌年、駿府城で七五歳の生涯を閉じました。

7.通信使と琉球侵攻

さて、家康が礎を築き、保たれた江戸時代二五〇年の平和を俗に「パクストクガワーナ」と言われています。

文禄慶長の役あと家康は、宗義智宗義智景轍玄蘇景轍玄蘇らと共に日朝国交回復に向けて尽力。その結果、僅か一〇年で国交が回復。これ以降、朝鮮通信使が一二回来日して、日本の文化発展に大いに貢献することとなりました。

一方、島津氏の再三の琉球出兵要求を抑制していた幕府は、ついに琉球出兵を許可。慶長一四年(1609)三月、三〇〇〇の薩摩軍勢が琉球に侵攻して、琉球国王尚寧(しょうねい)は降伏させられました。

将軍職を秀忠に譲っていた大御所家康は、琉球陥落の報に接すると即座に島津義弘義弘の子で島津当主・家久に琉球の仕置(しおき)権=支配権を与えました。

パクストクガワーナの初っぱなから、薩摩に力を与えてしまっている。老獪な心を、死の直前まで保つことは難しかった「タヌキ」でした。

徳川家康の一族

徳川氏

ライバル

政治関係

仲良し

参考文献

  • 桜井進『江戸のノイズ-監獄都市の光と闇』(日本放送出版協会、2000年 )
  • 高良倉吉・田名真之 [編]『図説 琉球王国(ふくろうの本)』(河出書房新社、1993)
  • 戦国覇王』戦国大名篇(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)

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