戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 戦国武将一覧

戦国武将解説

福島正則(ふくしま-まさのり)

プロフィール

福島正則
Masanori Fukushima

広島藩主。幼名は市松(いちまつ)。最後の戦国武将。

賤ヶ岳の七本槍の一番槍として勇名を馳せたが、豊臣政権下では肥後の検地、文禄の役では兵站の輸送など裏方の仕事が多かった。

慶長の役は渡海せず、同期の加藤清正黒田長政と違って長い間、戦場から遠ざかり、迎えた関ヶ原の戦い。

正則は東軍の先陣を務め、宇喜多秀家島津義弘の軍と果敢に戦い、その功により清州尾張二四万石から安芸・備後五〇万石を授けられ広島城主となった。

しかし徳川家康から常に警戒され、名古屋城の築城工事のほか大坂冬の陣では江戸城の留守居役を命じられ、豊臣秀頼のことを思い戦争回避に心を砕くが――!

享年六四(生1561-没1624)。清正より一つ、黒田長政より七つ年上。来島通総井伊直政と同い年。

詳細

1.七本槍の一番槍

文禄年間 中国・四国諸大名配置図
図1:文禄年間 中国・四国諸大名配置図

尾張の住人・福島市兵衛正信の長男。母は豊臣秀吉豊臣秀吉の伯母木下氏と伝えられてます。幼時から秀吉に仕え、初陣は一八歳の時、天正六年(1578)播磨三木城攻めでした。

同一一年(1583)二三歳の時の賤ヶ岳の戦い(VS柴田勝家柴田勝家)では、加藤清正加藤清正加藤嘉明加藤嘉明脇坂安治脇坂安治らと共に七本槍の一人として勇名を馳せました。

しかも正則は一番槍・一番首と功績抜群のため、他の七本槍が三〇〇〇石に対し正則は五〇〇〇石を近江及び河内の地に与えられました。

秀吉は四国全土を制圧していた長宗我部元親長宗我部元親を倒すと、天正一三年(1585)に二五歳の正則に伊予(愛媛県)今治一一万石を与え、正則は大名となりました。

2.肥後国の検地

同一五年(1587)正則は九州征伐(VS島津義久・島津義弘義弘)に従軍。九州を平定した秀吉は、秀吉に降りた佐々成政佐々成政を熊本城に封じました。

しかし肥後国(熊本県)の古い豪族らの反発が強く、成政が検地を始めると一揆が勃発。九州の小早川・島津・鍋島・黒田のほか、四国・中国の兵を動員して鎮圧しました。

正則は翌年四月に戸田勝隆と共に肥後の代官及び検地奉行を務め、同一六年閏五月に加藤清正加藤清正が熊本二五万国、小西行長小西行長が宇土一四万石の城主として肥後国に入りました。

同一八年の小田原合戦(VS北条氏政北条氏政)に従軍。正則は伊豆韮山城攻めの先手となってこれを落としました。

3.文禄・慶長の役

文禄の役地図
図2:文禄の役 日本軍進路と国王避難路

豊臣秀吉豊臣秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日、日本軍朝鮮へ侵攻

三二歳の正則は、第五軍として長宗我部元親長宗我部元親来島通総来島通総らと共に忠清道(チュウチョンド)へ進軍しました。

忠清道は釜山とソウルの中間にあり、兵站の保全と輸送が主な任務の為、全軍の中で最も影が薄く、しかも他の軍同様、義兵抗争には苦戦を強いられました。

同二年には戸田勝隆と元親らと共に巨済島に松真浦倭城を築城し彼らと共に在番し、同年中頃に帰国。

一時停戦時に入ると同三年~同四年の前半まで正則は、伊予と朝鮮海域を往復しながら、朝鮮に残る日本軍の兵站確保に努めました。

また同四年に、尾張清州城主となり二四万石を与えられました。

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めましたが、正則の行動については調べてみたものの不明です。渡海せずに肥前名護屋に在陣カ。

同年七月、三七歳の正則は侍従を授けられ、また羽柴姓を許されたので、この頃から羽柴清州侍従(じじゅう)と呼ばれるようになりました。

4.小山の茶番もとい軍議

関ヶ原合戦直前地図_中部地方周辺
図3:関ヶ原合戦直前地図_中部地方周辺
この頃の正則居城は尾張清州

秀吉死後の慶長五年閏三月、豊臣の大黒柱・前田利家前田利家が大坂城で病死。これを機会に加藤清正加藤清正加藤嘉明加藤嘉明浅野幸長浅野幸長黒田長政黒田長政細川忠興素材細川忠興・正則らは、反派閥の石田三成石田三成を大坂で襲い、三成を佐和山に引き籠らせました。

一方、会津の上杉景勝上杉景勝は三成と通じ、東西で徳川家康徳川家康を挟み撃ちすることにしました。これにより家康が会津征伐のため挙兵すると、正則もこれに従軍。

同年七月、下野国(栃木県)小山に到着した家康は確認のため、「君らは豊臣方の武将だから、ここで君らが大坂に引き返しても、この家康、恨まないよ。どうする?」と従軍の諸将らに尋ねました。

し――ん……

しばらく沈黙が続いたあと、正則が「内府公(家康)の御為に身命を投げ打って御味方する決心である!」と言うと、黒田長政・細川忠興ら外様の諸将らも皆賛同し、各々誓書を提出しました。さすが正則、意味わからん。(笑)

5.関ヶ原の戦い

家康はこのまま会津に進軍すべきか諸将に再び尋ねると、会津を捨てて上方へ進軍すべしとの主張を受け取って、上杉景勝は最上義光伊達政宗伊達政宗らに当たらせました。

正則は東軍の先鋒となって西上し同年八月に清州に入城。家康の本隊が遅いことを憤って待機。しかし家康の使者が東軍の味方の証拠として出馬せよと伝えたことにより、美濃に進んで諸城を落としました。

九月一五日の関ヶ原本戦で四〇歳の正則は、池田輝政と共に先陣を務め、宇喜多秀家宇喜多秀家島津義弘島津義弘の軍と戦いました。

正則は、豊臣恩顧の大名にも関わらず率先して徳川の為に働き、その絶大な功労により清州尾張二四万石から同年一一月安芸・備後二カ国約五〇万石の大封を授けられ、毛利輝元毛利輝元が総力挙げて建設したばかりの広島城に移り住みました。

これは周防・長門(いずれも山口県)に押し込められた毛利氏の備えの意味もありました。

6.普請の手伝いと大坂の陣

家康は、江戸城修築や名古屋城築城のため外様大名にその普請の手伝いをするよう命じました。これにより加藤清正加藤清正加藤嘉明加藤嘉明黒田長政黒田長政浅野幸長浅野幸長らと共に正則は、人夫を提供しまた自ら石材や木材の運搬を指揮しました。

こうして家康は、依然力を持つ目障りな豊臣恩顧の体力と財力を消耗させていきました。

また、家康に勧められるがままに秀吉の遺児・豊臣秀頼秀頼は、方広寺大仏殿の再興工事に着手。しかし方広寺の鐘に家康を呪う文字が刻まれると金地院崇伝に難癖をつけられて、ついに大坂の陣へ突入。

徳川から警戒されていた正則は、冬の陣で黒田長政・加藤嘉明らと共に江戸城の留守居役を命じられました。秀頼をおもんばかって正則は、戦争回避のお願いの手紙を家康に送りましたが願いが届くことはありませんでした。

慶長一六年(1611)正則五一歳の時には、浅野長政浅野長政堀尾吉晴・清正が死去。二年後に浅野幸長も死去して豊臣恩顧の大名は正則と黒田長政くらいになってしまいました。

元和元年(一六一五)夏の陣では秀忠の命により三男忠勝を出陣させましたが、戦闘に間に合いませんでした。大坂城は落城して秀頼と淀殿(茶々)素材淀殿は自刃しました。

7.改易

帰国を許されて広島に帰った正則は、洪水に見舞われ広島城が浸水したので急ぎ城の修復しました。しかし将軍の許可を得てないとして、徳川秀忠徳川秀忠から陸奥津軽へ転封を命じられました。

しかし津軽信枚が移封を喜ばず、また津軽が遠方であるとの理由で信濃国川中島と越後国魚沼郡四万五千石を与えられ、信濃に赴き同高井郡に蟄居すること五年。六四歳の生涯を閉じました。

正則のことば「我は弓なり、乱世の用なり。今治世なれば、川中島の土蔵に入らるるなり」

8.最後の戦国武将

"関ヶ原で島津義弘島津義弘軍の逃亡を、正則が一騎でその集団の中を駆け入らんとしたので家臣が押し止めた。正則はやむをえず引き返したけれど敵に後ろを見せたくないので、後ろ向きで味方の陣に戻って来た。"

という、いかにも正則らしいエピソードは面白いですが、そのようなエピソードを引き合いに出さずとも正則の生涯を通してみれば、純だなということが充分伝わってきます。

豊臣政権下では、地味な仕事が多かったけれど、それを長い間きちんと務めているのは意外ですね。出るとこ出て引っ込むとこは引っ込む姿勢は純というかむしろ大人。

そして純であれば、幸か不幸か必然的にドラマチックな人生を歩むことになることを『福島正則―最後の戦国武将 (中公新書) 』から教えられた気がします。

今まで正則に全く興味がなかったのですが(笑)、この本で思いがけず正則のファンになってしまいました。まさに「最後の戦国武将」の名にふさわしい武将です。

福島正則相関図

主君

豊臣秀吉豊臣秀吉豊臣秀頼秀頼  

仲よし

加藤清正加藤清正加藤嘉明加藤嘉明黒田長政黒田長政

文禄の役 第五軍

長宗我部元親長宗我部元親来島通総来島通総

猛烈にムカツク武将

石田三成石田三成井伊直政井伊直政

福島家を取り潰した武将

徳川秀忠徳川秀忠

  

関連トピック

福島正則

素材:肖像福島おもだか紋軍旗/イラスト:リアルPOPほっこり

参考文献

福尾猛市郎、藤本篤『福島正則―最後の戦国武将 (中公新書) 』(中央公論新社、1999年)

国史大辞典編集委員会 (著)『国史大辞典 (12) 』(吉川弘文館、1979年)

新人物往来社 (編集) 『天下取り採点 戦国武将205人 』(新人物往来社、1998年)