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戦国武将解説

長宗我部元親(ちょうそかべ-もとちか)

プロフィール

長宗我部元親
Motochika Chosokabe

土佐国(高知県)の戦国大名。幼名は弥三郎。

簡単にいうと、土佐国の伊達政宗というべき粋で毒々しい田舎イケメン侍。

「姫若子」と呼ばれる色白のおとなしい男の子だったが、初陣すると怒涛の勢いで四国に勢力を伸ばす。しかし秀吉の四国征伐に敗れ結局土佐国一国に納まる。

徳のある武将だったが、秀吉の九州征伐に加わった長男・信親が戦死すると性格が豹変。家督は次男・三男をすっ飛ばして四男の盛親に決定した。

文禄の役では第五軍の福島正則に配属され、南西部の忠清道へ進軍。一時停戦時に朝鮮から大量の材木を秀吉に献上する。

慶長の役でも渡海し、泗川倭城の普請と蔚山の戦いに功を立てた。帰国後、『長宗我部元親百箇条』を発布したが、そのあと間もなく病に倒れてしまう――

享年六一(生1539-没1599)。豊臣秀吉より2歳年下。同い年は前田利家

詳細

1.姫若子の強さと優しさ

文禄年間 中国・四国諸大名配置図
図1:文禄年間 中国・四国諸大名配置図

四国・土佐国(高知県)に国親の子として生まれた長宗我部元親元親は、幼少期はおとなしく色白で「姫若子」と呼ばれていました。

初陣は遅く二二歳でしたが初陣するやいなや「鬼若子」に化けて、河野氏の本拠地である伊予(現・愛媛県)を除く四国に勢力を伸ばしました[註1]。

しかし織田信長織田信長に度々攻撃され、天正一三年(1585)八月・四七歳の時に豊臣秀吉豊臣秀吉の四国征伐にあうと降伏して、土佐国一国だけを安堵されることになりました。

ある日、秀吉が舟遊びに出かけた折、付き従った諸大名にお饅頭を渡し、諸大名はその場で有難くお饅頭を食べました。

しかし元親だけは「秀吉さまからいただいた有難いものだからみんなで食べましょう」とお饅頭を自分の家臣たちにちぎって渡しました。いくさに強いだけではなく人情の厚い元親。

2.長男・信親の死

しかし秀吉が九州制圧する為、それに参陣した四八歳の元親は、天正一四年(1586)戸次川(へつぎがわ)の戦い(島津VS豊臣軍)に敗れて長男の信親を死なせてしまいました。

それから元親の性格は豹変し、情の厚い元親はどこへやら。家臣のことばには耳をかさず、逆らう者は殺害する始末。家督は、次男・三男を差置いて四男の盛親(もりちか)に決定してしまいました。

鯨

3.鯨進上の事

天正一五年(1587)から元親の居城となる浦戸城の普請工事が始まりました。『元親記』によるとその折、浦戸湾に長さ二〇メートル程の鯨が迷い込みました。

この鯨を秀吉に献上することとなり、すだれのように桧(ひのき)の葉を編んでこれに鯨を包んで船で大坂へ運びました。

これを聴いた秀吉は直ちに町奉行に命令し、七、八百人動員して大坂城内へ入れ、鯨の物珍しさに侍も町の人も町筋に集まり見物。

秀吉は褒美に鯨を捕った者にと、米百石を贈り、この米は浦戸の漁師たちに分配しました。

4.文禄の役

文禄の役地図
図2:文禄の役 日本軍進路と国王避難路

豊臣秀吉豊臣秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日、日本軍朝鮮へ侵攻

五四歳の元親は、第五軍の福島正則福島正則に配属され、忠清道(チュウチョンド)へ進軍しました。

忠清道は釜山とソウルの中間にあり、兵站の保全と輸送が主な任務の為、全軍の中で最も影が薄く、しかも他の軍同様、義兵抗争には苦戦を強いられました。

明と日本の和議が進められている一時停戦時に『元親記』によると元親は、加徳島にあって、くぬぎの皮つき材を三百本、大竹三百本を秀吉に献上。

元親の家臣によってこれらは聚楽第の広庭に積み上げられました。秀吉は、

「元親の高麗からの贈り物は、人の思いつかない品物だ。今にはじまった事ではないが万事に気の付くことは、なかなか田舎侍とは言い難い。皆よく見るがよい。」と言いました。

5.慶長の役

慶長の役地日本軍進路
図3:慶長の役 日本軍進路図

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、五九歳の元親は六番隊として再渡海しました。

秀吉の命もあって、南原の戦いで日本軍による鼻切りが積極的に行われました。

『元親記』によると全羅道羅州で避難せず一部残っている人を元親はことごとくなで斬りにして、鼻をそぎ取り、その数は六六〇〇人とのことでした。

また元親は毛利吉成と共に泗川(サチョン)倭城の普請を担当し、同年暮れに完成させて島津義弘島津義弘に引き渡しました。

同年一二月、明の楊鎬と麻貴及び朝鮮の権慄率いる連合軍六万が、加藤清正加藤清正以下二千の日本軍が籠る蔚山(ウルサン)倭城を包囲。

翌慶長三年(1598)正月、毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂らと共に元親は救援隊として囲みを解きました。

同年正月五日、楊鎬は全軍に撤退命令を出し十日余続いた蔚山の戦いはついに終了。この戦いにより日本軍は一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。

元親は同年三月に帰国。秀吉は同年八月に死去し、徳川家康徳川家康ら五大老と石田三成石田三成ら五奉行が朝鮮の日本軍の撤退の指示を出しました。

6.長宗我部元親百箇条

土佐国の施政政策方針は、元親と一門・三家老・重臣らで話し合う月六度の会議により設定していました。

朝鮮から帰国した元親は、家督の盛親と上記メンバーとで検討し制定した『長宗我部元親百箇条』を同年三月二四日に発布。

内容は身分・財産・官職・訴訟・刑事・取締・交通・軍事・文教をはじめ各般に渡っており、公儀・公益を優先するこを規定した領国法と家法との性格を併せ持っていました。

翌慶長四年(1599)五月、六一歳で京都・伏見で病に倒れ、波乱万丈な生涯を閉じました。

秀吉に取り入る為に一風変わった派手な演出をしかけてきたり、毒々しいところも含めて伊達政宗伊達政宗に似ている(笑)、どこか憎めない田舎侍もといイケメン侍の一人かもしれません。

長宗我部元親 相関図

家族

息子:長宗我部盛親  

国内のライバル

織田家の四国方面軍:織田信孝丹羽長秀

戸次川の戦い:島津義弘島津義弘

自分のパフォーマンスにいつも大ウケ!

豊臣秀吉豊臣秀吉

文禄の役

第五軍:福島正則福島正則

倭城

島津義弘島津義弘が在番する泗川(サチョン)倭城を毛利吉成と共に築城。

蔚山の戦い

味方:加藤清正加藤清正毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂

ライバル:明の楊鎬・朝鮮の権慄

  

関連トピック

長宗我部元親

素材:肖像片喰紋イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

補註

元親は四国全域を制覇したと言われているが、拙サイトでは内田九州男,川岡勉,矢野達雄,寺内 浩 共著『愛媛県の歴史 (県史) 』(山川出版社、2010年)により河野氏の本拠地・伊予国は攻略できなたった説を採用した。

参考文献

国史大辞典編集委員会『国史大辞典 (9) 』(吉川弘文館 、1988年)

泉 淳『元親記 (日本合戦騒動叢書) 』(勉誠社、1994年)

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)