プロフィール
土佐国(高知県)の戦国大名。幼名は弥三郎。
四国の伊達政宗というべき、粋で毒々しい田舎イケメン侍。
姫若子と呼ばれる色白のおとなしい男の子だったが、初陣すると怒涛の勢いで四国に勢力を伸ばす。しかし秀吉の四国征伐に敗れ結局、土佐国一国に納まる。
詳細
1.姫若子の豹変
四国・土佐国(高知県)の名門・国親の子として生まれた元親は、幼少期はおとなしく色白で「姫若子」と呼ばれていました。
初陣は遅く二二歳でしたが、初陣するやいなや「鬼若子」に化けて、河野氏の本拠地である伊予(愛媛県)を除く四国に勢力を伸ばしました[註]。
これにより目立ってしまった長宗我部は、宿敵武田氏を滅ぼした織田信長の次の攻撃目標とされ、信長との衝突も時間の問題でした。しかし本能寺の変で信長が倒れたことにより攻撃を免れました。
しかし天正一三年(1585)八月・四七歳の時に、豊臣秀吉の四国征伐において降伏。土佐国一国だけを安堵されることになりました。
ある日、秀吉が舟遊びに出かけた折、付き従った諸大名に饅頭を渡し、諸大名はその場で有難く饅頭を食べました。しかし元親だけは「秀吉さまからいただいた有難いものだから、みんなで食べましょう」と饅頭を自分の家臣たちにちぎって渡しました。
秀吉の九州攻めに従い、同一四年(1586)戸次川(へつぎがわ)の戦い(島津VS豊臣軍)に敗れて長男信親二二歳が戦死。弔問に訪れた秀吉の死者に「弓箭(ゆみや)を執(と)るの家、戦死を以て栄となす。悔い思ふべきにあらず」(名将言行録)と、まるで自分にいい聞かせるように語りました。
それから元親の性格は豹変し、家臣のことばには耳をかさず、逆らう者は殺害する始末。家督は次男・三男を差置いて四男の盛親(もりちか)に決定してしまいました。
2.鯨進上の事
天正一五年(1587)から元親の居城となる浦戸城の普請工事が始まりました。『元親記』[文献3]によるとその折、浦戸湾に長さ二〇メートル程の鯨が迷い込みました。
この鯨を秀吉に献上することとなり、すだれのように桧(ひのき)の葉を編んでこれに鯨を包んで船で大坂へ運びました。
これを聞いた秀吉は直ちに町奉行に命令し、七、八百人動員して大坂城内へ入れ、鯨の物珍しさに侍も町の人も町筋に集まり見物。秀吉は褒美に鯨を捕った者にと米百石を贈り、この米は浦戸の漁師たちに分配しました。
3.文禄の役
豊臣秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月一三日、日本軍は朝鮮へ侵攻。
元親五四歳は、第五軍の福島正則に配属され、忠清道(チュウチョンド)へ進軍しました。
忠清道は釜山とソウルの中間にあり、兵站の保全と輸送が主な任務のため、全軍の中で最も影が薄く、しかも他の軍同様、義兵抗争には苦戦を強いられました。
明と日本の和議が進められている一時停戦時に『元親記』によると元親は、加徳島にあって、くぬぎの皮つき材を三百本、大竹三百本を秀吉に献上。
元親の家臣によってこれらは聚楽第の広庭に積み上げられました。秀吉曰く「元親の高麗からの贈り物は、人の思いつかない品物だ。今にはじまった事ではないが万事に気の付くことは、なかなか田舎侍とは言い難い。皆よく見るがよい。」
4.慶長の役
慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、元親五九歳は六番隊として再渡海。
秀吉の命もあって、南原の戦いで日本軍による鼻切りが積極的に行われました。
『元親記』によると全羅道羅州で避難せず一部残っている人を元親はことごとくなで斬りにして、鼻をそぎ取り、その数六六〇〇人。
また元親は毛利吉成と共に泗川倭城の普請を担当し、同年暮れに完成させて島津義弘に引き渡しました。
同年一二月、明の楊鎬と麻貴及び朝鮮の権慄率いる連合軍六万が、加藤清正以下二千の日本軍が籠る蔚山倭城を包囲。翌慶長三年(1598)正月、毛利秀元・黒田長政らと共に元親は救援隊として囲みを解きました。
元親は同年三月に帰国。秀吉は同年八月に死去し、徳川家康ら五大老と石田三成ら五奉行が朝鮮の日本軍の撤退の指示を出しました。
5.長宗我部元親百箇条
土佐国の施政政策方針は、元親と一門・三家老・重臣らで話し合う月六度の会議により設定していました。朝鮮から帰国した元親は、家督の盛親と上記メンバーとで検討し制定した『長宗我部元親百箇条』を同年三月二四日に発布。
内容は身分・財産・官職・訴訟・刑事・取締・交通・軍事・文教をはじめ各般に渡っており、公儀・公益を優先するこを規定した領国法と家法との性格を併せ持っていました。翌慶長四年(1599)五月、六一歳で京都伏見で病に倒れ、その生涯を閉じました。享年六一
長宗我部元親 相関図
長宗我部氏
国内のライバル
豊臣政権
- 自分のパフォーマンスにいつも大ウケ!:秀吉
文禄・慶長の役
補註
元親は四国全域を制覇したと言われているが、拙サイトでは文献2により河野氏の本拠地・伊予国は攻略できなたった説を採用した。