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戦国人物解説

藤原惺窩(ふじわら-せいか)日本の朝鮮侵攻に対する儒学者の個人戦

目次

プロフィール詳細:1.藤原定家の子孫 2.通信使来日

3.渡航の失敗 4.姜沆との出逢い 5.姜沆の惺窩評

6.惺窩の本音 7.晩年相関図関連記事参考文献

プロフィール

藤原惺窩
Seika Fujiwara

近世日本儒学の祖。林羅山の師。

藤原定家12世の子孫。播磨の人。小さい頃に仏門に入り、僧となる。

文禄の役の前に来日した朝鮮通信使金誠一や許筬ら一行と交わったことをきっかけに朱子学に傾倒。

儒学を直接学ぶために渡航しようとしたが失敗。しかし慶長の役の捕虜として伏見に抑留されていた朱子学者姜沆(カンハン)と出逢う。

一方、但馬(兵庫県)竹田城主・赤松広通と共に姜沆の帰国を助けるため奔走する――!

享年59(1561-1619)。同い年は福島正則井伊直政来島通総。姜沆より6つ、赤松広道より1つ年上。

詳細

1.藤原定家の子孫

藤原惺窩惺窩は藤原定家一二世の子孫。祖先の藤原氏のうちの下冷泉(しもれいぜい)家に属し、代々播磨の細河の領地に居住し、冷泉為純(ためずみ)の子として生まれました。

七、八歳の頃に仏門に入り、僧となって宗舜と号しましたが、天正六年(1578)父・為純は三木城主・別所長治に攻められて戦死。京都の相国寺善広院住職の叔父・清叔寿泉を頼って上洛。相国寺で禅学と漢学の素養を身につけました。

2.通信使来日

天正一八年(1590)惺窩三〇歳の時、明国制圧を目論む豊臣秀吉豊臣秀吉が、明国の通り道となる朝鮮に国王宣祖の参内を二度三度と要求しました。

余りにしつこいので朝鮮は、通信使として黄允吉(ホワン・ユンギル)、金誠一、許筬(ホソン)を派遣することを決定。楽隊まで加えて二百人の大一行が来日しました。

惺窩は、朝鮮の朱子と呼ばれた李退渓(り‐たいけい)門下三傑のうち二人・金誠一と許筬らと交わり朱子学に傾倒しました。

3.渡航の失敗

関ヶ原合戦直前地図_近畿地方
図1:慶長前期諸大名地図_近畿地方
惺窩は播磨竹田の赤松広通の招きに応じる。

文禄二年(1593)惺窩三三歳は、名護屋に赴き小早川秀秋小早川秀秋徳川家康徳川家康に接し、家康の招きで江戸に行き『貞観政要』(じょうがん‐せいよう・政治のあり方を説き示した中国の古典)を講じました。

翌年、京都に上り、好学の竹田城主・赤松広通(ひろみち)の招きに応じて故郷の播磨に帰りました。

慶長元年(1596)惺窩三六歳は、儒学を直接学ぶため明に渡航しようと、慶長元年六月二八日京都を出立。内海から東九州海岸を経て七月二三日に薩摩に到り、ついで浜之市(はまのいち)で島津義久・伊集院忠棟に面会し承諾を得て、七月一六日薩摩の山川津到着。

同八月から遅くとも翌年初頭に山川津を出帆しましたが、途中疾風にあって鬼界ヶ島に漂流。翌年の夏までここに滞在していたと推定されます。

4.姜沆との出逢い

慶長の役地日本軍進路
図2:慶長の役 日本軍進路図
姜沆は南原の戦い後に捕虜となる。

渡航に失敗した惺窩。しかし慶長三年(1598)六月ごろ、惺窩三八歳は伏見にて慶長の役の捕虜で伏見に抑留されていた朱子学者姜沆(カンハン)と出逢いました。

惺窩は姜沆の協力を得て『四書五経倭訓』を執筆。これは日本近世における学問研究の自由を主張とした最初の所になり、姜沆が釈放される慶長五年(1600)二月までの一年半ほどの親交を通して儒学の理解を深めました。

5.姜沆の惺窩評

一方、姜沆著『看羊録』(かんようろく)には、惺窩がどのような人物なのか記載があるので以下にご紹介します。

「私は倭京に連れて来られてからというもの、倭国の内情を知ろうと思って時々和僧と接した。その中には、文字を知り、ものの理(ことわり)を識(し)っている者がなくもなかった。

妙寿院の僧、舜首座(しゅんしゅそ=藤原惺窩)なる者がいる。彼は、大変聡明で古文をよく解し、書についても通じていないものがない。性格も強くきびしく、倭では受け容(い)け入られる所がない。

内府・徳川家康がその才能を聞き、家を倭京に築いて、年に米二〇〇〇を給した。舜首座は、その家を捨てて住まわず、扶持(ぶち)も辞退して受けず、ただ若州少将木下勝俊、赤松左兵衛広道と交友した。」

6.惺窩の本音

また惺窩は姜沆に次のようなことを言いました。

「日本の民衆の憔悴(しょうすい)が今ほどひどい時代はありませんでした。

朝鮮がもし明と共に日本の罪を正す兵を出し、日本に侵入しても、仮名書きの布告文を掲げさせ、民衆を水火の苦しみから救おうとしているのだと知らしめ、軍隊が通過する地域にいささかの被害も与えなければ、白河の関(現・福島県)まででも充分行くことができましょう。(『看羊録』)」

7.晩年

姜沆が慶長五年(1600)五月に無事帰国した同年九月に関ケ原の戦いで、惺窩を師として仰いだ西軍に属した赤松広通が自害しました。

惺窩は多くの大名や公家、僧侶と親交をもっていましたが、生涯誰にも仕えず、晩年は洛北の市原に隠棲して自然を楽しむ生活を送りました。

惺窩の門弟は多く、特に林羅山・松永尺五・那波活所・堀杏庵は藤門四天王と呼ばれています。

惺窩は朱子学を主としながら、陸象山(りくしょうざん)や王陽明を積極的に受容し、この点は高弟の林羅山からの攻撃を受けましたが、それだけ朱子学だけを固執しないゆとりを持っていました。また、仏教に対しては林羅山のような激しい廃仏的態度は少しもありません。

姜沆は帰国後、仕官することなく故郷で後進の指導にあたり、多くの儒者を輩出させ、1618年(光海君10)五月、五二歳でその生涯を閉じました。惺窩はその翌年元和五年(1619)五九歳でその生涯を閉じました。

藤原惺窩 相関図

交遊

姜沆(カンハン)、赤松広通木下勝俊(長嘯子)

藤門四天王

林羅山、松永尺五、那波活所、堀杏庵

家族

惺窩の妻は不詳。儒者になってからの晩婚で子どもは男一人、女一人。男・為景は冷泉家を継ぎ、左近衛権中将に進み、しばし天皇の経書の講義に侍講。惺窩と同じく教養豊かな人物でした。

臨済宗

相国寺:西笑承兌西笑承兌/南禅寺:金地院崇伝

交友のあった大名

石田三成石田三成小早川秀秋小早川秀秋浅野幸長浅野幸長板倉勝重徳川家康徳川家康細川忠興細川忠興・忠利

  

参考文献

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藤原惺窩

イラスト:リアルほっこり