プロフィール
近世日本儒学の祖。
「先生の姓は藤原、諱(いみな:実名)は粛(しゅく)、字(あざな:別名)は斂夫(れんぷ)、播州細川邑(ほそかわむら)の人なり。」[林羅山_文献1]
小さい頃に仏門に入り、僧となる。文禄の役の前に来日した朝鮮通信使の金誠一や許筬ら一行と交わったことをきっかけに朱子学に傾倒。
儒学を直接学ぶため明に渡航しようとしたが失敗。しかし慶長の役の捕虜として伏見に抑留されていた朱子学者・姜沆(カンハン)と出逢う。
一方、但馬(兵庫県)竹田城主・赤松広通と共に姜沆の帰国を助けるため奔走する――!
著書は、浅野幸長のために書いたらしい『寸鉄録』ほか、『四書五経倭訓』『大学要略』など。
詳細
1.藤原定家の子孫
惺窩は藤原定家一二世の子孫。祖先の藤原氏のうちの下冷泉(しもれいぜい)家に属し、代々播磨の細河の領地に居住し、冷泉為純(ためずみ)の子として生まれました。
七、八歳の頃に仏門に入り、僧となって宗舜と号しましたが、天正六年(1578)父・為純は三木城主・別所長治に攻められて戦死。京都の相国寺普広院(ふこういん)住職の叔父・清叔寿泉を頼って上洛。相国寺で禅学と漢学の素養を身につけました。
2.通信使来日
天正一八年(1590)惺窩三〇歳の時、明国制圧を目論む豊臣秀吉が、明国の通り道となる朝鮮に国王宣祖の参内を二度三度と要求。
余りにしつこいので朝鮮は、通信使として黄允吉(ホワン・ユンギル)、金誠一、許筬(ホソン)を派遣することを決定。楽隊まで加えて二百人の大一行が来日しました。
惺窩は、朝鮮の朱子と呼ばれた李退渓(り‐たいけい)門下三傑のうち二人・金誠一と許筬らと交わり朱子学に傾倒しました。
3.渡航の失敗
文禄二年(1593)惺窩三三歳は、名護屋に赴き小早川秀秋・徳川家康に接し、家康の招きで江戸に行き『貞観政要』(じょうがんせいよう:政治のあり方を説き示した中国古典)を講じました。
翌年、京都に上り、好学の竹田城主・赤松広通(ひろみち)の招きに応じて故郷の播磨に帰りました。
慶長元年(1596)惺窩三六歳は、儒学を直接学ぶため明に渡航しようと、同年六月二八日京都を出立。内海から東九州海岸を経て七月二三日に薩摩に到り、ついで浜之市(はまのいち)で島津義久・伊集院忠棟に面会し承諾を得て、閏七月一六日薩摩の山川津到着。
同八月から遅くとも翌年初頭に山川津を出帆しましたが、途中疾風にあって鬼界ヶ島に漂流。翌年の夏までここに滞在していたと推定されます。
4.姜沆との出逢い
渡航に失敗した惺窩。しかし慶長三年(1598)六月ごろ、惺窩三八歳は伏見にて慶長の役の捕虜で伏見に抑留されていた朱子学者の姜沆(カンハン)と出逢いました。
かくして姜沆は、惺窩の別荘名を『大学』の「心広、体胖」からとって広胖窩(こうはんか)と命名。窩は別荘のこと。かくして「先生、自ら称して惺窩(せいか)と言ふ。これ上蔡(じょうさい:北宋の儒学者 謝良佐)のいはゆる惺惺(せいせい)の法(心を惺まして道理を悟る方法)に取るなり。」[林羅山_文献1]
これまで日本の儒教は、漢・唐代の儒学者による解釈で「故に性理(せいり)の学は識(し)る者鮮(すくな)し。これに由りて、先生(惺窩)」は、姜沆の協力を得て『四書五経倭訓』を執筆。これは日本近世における学問研究の自由を主張とした最初の書になりました。
5.姜沆が見た惺窩
姜沆 著『看羊録』(かんようろく)にて、以下に惺窩を見てみましょう。
「私(姜沆)は倭京に連れて来られてからというもの、倭国の内情を知ろうと思って時々和僧と接した。その中には、文字を知り、ものの理(ことわり)を識(し)っている者がなくもなかった。
妙寿院の僧、舜首座(しゅんしゅそ=惺窩)なる者がいる。彼は、大変聡明で古文をよく解し、書についても通じていないものがない。性格も強くきびしく、倭では受け容(い)け入られる所がない。
内府・徳川家康がその才能を聞き、家を倭京に築いて、年に米二〇〇〇石を給した。舜首座は、その家を捨てて住まわず、扶持(ぶち)も辞退して受けず、ただ若州少将木下勝俊、赤松左兵衛広道と交友した。」
惺窩曰く「日本の民衆の憔悴(しょうすい)が今ほどひどい時代はありませんでした[註1]。朝鮮がもし明と共に日本の罪を正す兵を出し、日本に侵入しても、仮名書きの布告文を掲げさせ、民衆を水火の苦しみから救おうとしているのだと知らしめ、軍隊が通過する地域にいささかの被害も与えなければ、白河の関(福島県)まででも充分行くことができましょう。」
6.羅山が見た惺窩
姜沆が慶長五年(1600)五月に無事帰国した同年九月に関ヶ原の戦いで、惺窩を師として仰いだ西軍に属した「赤松氏(広通)、自殺す。先生、甚だ慟(かなし)む。」[林羅山_文献1]
惺窩は多くの大名や公家、僧侶と親交をもっていましたが、生涯誰にも仕えず、晩年は洛北の市原に隠棲。「人、見(まみ)ゆるもの罕(まれ)」な惺窩四四歳に、同九年(1604)林羅山二二歳は初めて会いました。
「先生、左の傍らに」黒いあざが「三寸余りあり。眼に重瞳子(じゅうどうし:二重のひとみ)あり。…性(せい)、酒を嗜む。しかも、あるひは旬(じゆん)を経て唇を沾(うるお)さず。痛飲(つういん:大いに酒を飲む)して輙(すなわ)ち酔ひて乱れず。常に往来・雑遝(ざっとう)を好まず。」
姜沆は帰国後、仕官することなく故郷で後進の指導にあたり、多くの儒者を輩出させ、1618年(光海君10)五月、五二歳でその生涯を閉じました。惺窩はその翌年元和五年(1619)五九歳でその生涯を閉じました。
「細川氏・浅野氏・戸田氏、その外、弔(ちょう)する者多し。先生、男(だん)あり、小字(おさなな)を冬(とう:八歳)と曰ふ。女(じょ)あり、既に笄(けい:成人)す。先生、歿(ぼつ)して後、明年庚申(こうしん)の某月某日、羅浮子(らふし:羅山別名)道春謹んで状(じょう)す。」
藤原惺窩 相関図
下冷泉(しもれいぜい)家
- 為相(ためすけ):藤原定家の子。冷泉家の祖。
- 冷泉持為(もちため):為相の曾孫・冷泉為尹(ためまさ)次男。室町時代の歌人、公卿。兄の為之(ためゆき)の上冷泉家に対して下冷泉家をひらく。従二位、権大納言。
- 冷泉為純(ためずみ):惺窩の父。下冷泉家五代。
- 冷泉為将(ためまさ):惺窩の弟。
- 冷泉為景(ためかげ):惺窩の長男。後水尾天皇の勅命で叔父為将の跡を継ぎ、下冷泉家の歌学継承。
藤門(とうもん)四天王
交遊
補註
参考文献
- 石田一良 校注「一 惺窩先生行状_羅山林先生文集」『藤原惺窩 林羅山(日本思想体系28)』(岩波書店、1975年)188-198頁
- 西田太一郎 編『日本の思想17 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集 』(筑摩書房、1970年)
- 太田青丘『藤原惺窩(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館、1985年)
- 姜沆(著)・朴鐘鳴(翻訳)『看羊録』(平凡社、1984年)
- 前田一良「藤原惺窩」『日本歴史大辞典8』(河出書房新社、1985年)343-344頁
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 菅原正子「冷泉家」小和田哲男(監修)同左二人・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)705-706頁
- 宇野精一『全釈漢文大系 第二巻 孟子』(集英社、1973年 )96-97頁