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戦国武将解説

豊臣秀吉家臣団解説

大将

豊臣秀吉 家紋五三桐2
豊臣秀吉 豊臣家の家紋
身分の低かった秀吉には家臣がいなかったので、自分でせっせと集め、各々の能力に合った仕事を与えた。秀吉作ホームメイド家臣団。享年61 五三桐(ごさんのきり)

側近

秀長・利休が政治顧問を務めた。秀長は大友宗麟に向かって「内々の儀は利休に、公儀の事は秀長に」と語った。この二人の死後、政権は朝鮮出兵に一気に突き進む。

豊臣秀長 千利休
豊臣秀長 千利休
秀吉の異父弟。影の太閤ともささやかれ、人望があり、秀吉に匹敵する程のいくさ上手。秀吉の片腕として活躍したが天下平定の半年後に死去。享年52 秀吉の傍らで茶事を行ったので、政治に巻き込まれ、結果的に秀吉の茶人兼側近になる。非業な最期を遂げるが、利休の侘茶の精神は今も光輝く。享年70

軍師

秀吉の数々のいくさを支えた軍師の代表が、黒田官兵衛と竹中半兵衛。仲のよいこの二人を「ニ兵衛」と呼ぶことがある。

黒田官兵衛 竹中半兵衛
黒田官兵衛 竹中半兵衛
信長の時代は、中国方面軍として秀吉の毛利攻めを支えた。文禄の役では本営の肥前名護屋の設計を担当。享年59。 斎藤家の家臣時代、横暴な主君の城を17人の兵だけで乗っ取った。その実力を秀吉に買われてスカウトされた。享年36。

お姫様

北政所 淀殿
北政所 淀殿(茶々)
きたのまんどころ。ねねとも言う。秀吉の正室。加藤清正や福島正則らを幼少の頃が育て、家臣団を支えた。秀吉死後は尼になり、京の寺に住む。享年77。 秀吉の側室。浅井長政の長女。伯父は信長。秀吉との間に秀頼を出産。北政所は淀殿と同じく、関ヶ原合戦は西軍派だったという説がある。享年48。

五大老

政務と軍務、五奉行の顧問が主な仕事。特に力のあった徳川家康・前田利家に加え、毛利輝元・宇喜多秀家・(小早川隆景死後に)上杉景勝の五人が務めた。

徳川家康 前田利家
徳川家康 前田利家
内府(ないふ) 大納言
東京都。秀吉の仲良し、利家生存中は、天下を奪うことが叶わず、五大老時代は我慢の十年。秀吉と利家死後、58歳の時に関ヶ原合戦に挑んだ。享年75。 石川県。若い頃は槍を振り回すかぶき者で、槍の又佐と呼ばれた。正室は頭のいい、まつ殿。秀吉死後、一年も経たないうちに利家も死去する。享年61。
毛利輝元 宇喜多秀家
毛利輝元 宇喜多秀家
中納言
広島県。毛利元就の孫。関ヶ原合戦はあれよあれよと西軍の総大将。東軍に敗れ、所領120万石から30万石に減封。お家再建に奮闘した。享年73。 岡山県。父の直家死後、秀吉の養子となる。特技は贅沢。関ヶ原合戦では西軍につき果敢に戦うが敗れ、八丈島に流され83歳まで生き切った。
上杉景勝
上杉景勝
中納言
新潟県。伯父は上杉謙信。無口な上に笑わない。小早川隆景死後に五大老。関ヶ原合戦で敗れ、所領120万石から30万石へ減封。お家再建に努めた。享年69。

三中老

大老と奉行の意見の調整役。生駒一正(いっせい)、中村一氏、堀尾吉晴の三人が務めた。

堀尾吉晴
堀尾吉晴
仏の茂助と呼ばれる程の謙虚さで出世街道まっしぐら!小瀬甫庵の太閤記は、茂助記と呼びたいほど茂助を称えている。国宝・松江城の築城者。享年68

五奉行

行政をつかさどる。検地は浅野長政、石田三成、増田長盛が、財政は長束正家、京都奉行は前田玄以が担当した。

浅野長政 石田三成
浅野長政 石田三成
五奉行筆頭。愛称・長吉。朝鮮の役では渡海しようとする秀吉に対し一喝して中止させた。豊臣子飼い出身だが、行政家として手腕を振るい庶民から家康までにも慕われた。享年65。 幼名は佐吉。国によってバラバラだった検地を全国規模で統一した太閤検地は、三成の発明とも言われる。秀吉死後は、まさかの反徳川包囲網を作り上げ、関ヶ原合戦に挑む。享年41 。

一門衆

秀吉の血縁関係にある家臣。

豊臣秀次 小早川秀秋
豊臣秀次 小早川秀秋
秀吉の姉の長男。秀吉に子供ができなかった為、秀吉の養子になる。関白になるが、秀頼が生まれると謀反の疑いをかけられ、処刑された。享年28。 金吾とも呼ばれる。北政所の姉の子。秀吉の養子になり、秀頼が生まれると、小早川家の養子となる。関ヶ原合戦では西軍を裏切り、21歳の若さで死去。

子飼い衆

尾張衆、譜代衆とも呼ばれる。小さい頃から秀吉に仕え、槍働きを得意とするグループ。加藤清正、福島正則を初め、加藤嘉明、浅野長政など。関ヶ原の戦いは東軍につく。

加藤清正 福島正則
加藤清正 福島正則
幼名は虎之助。熊本城を築城。秀吉の数々のいくさで活躍。関ヶ原合戦後は、秀頼のそばにいて守った。結果、豊臣と徳川の板挟みになった。享年50。 幼名は市松。清正と並ぶ豊臣家の猛将。関ヶ原合戦は東軍として活躍。しかし徳川は豊臣恩顧の正則を警戒。福島家はお家取り潰しとなった。享年64。

文治派

近江衆とも呼ばれる。石田三成を中心としたグループで、計理に明るい。大谷吉継、小西行長を初め、片桐且元、増田長盛、長束正家など。関ヶ原の戦いは西軍につく。

大谷吉継 小西行長
大谷吉継 小西行長
ハンセン病を患い、顔に包帯を巻いている。関ヶ原で家康を共に倒そうと三成に言われ一度断るが、病を支えてくれた三成と共に戦うを決意する。享年42。 朝鮮の役の主役的存在だが、朝鮮との戦争には反対で、和平交渉に向けて誰よりも全力を尽くす。関ヶ原合戦後は、共に戦った三成と共に処刑された。享年45。

豊臣秀吉家臣団の特徴

五大老と三中老

身分の低い家柄だった豊臣秀吉豊臣秀吉には、譜代家臣などはいなかった為、自ら優秀な家臣をせっせとスカウトしては、織田信長織田信長のように適材適所の役職に置くことが非常に得意です。

さて秀吉家臣団の柱ともいうべき五大老。その職責は、政務と軍務、五奉行の顧問、秀頼の後見人…などと言われていますが、真の狙いは徳川家康徳川家康の力を、前田利家前田利家毛利輝元毛利輝元宇喜多秀家宇喜多秀家上杉景勝上杉景勝の4人で封じ込めよう!というものです。

五大老の下には、生駒一正、中村一氏、堀尾吉晴の地味な三人で構成される三中老という役職が存在します。三中老の役目は、家康封じ込め作戦の外側の円なのかもしれません。

狂い始める政権

天下平定の半年後、秀吉の弟の豊臣秀長豊臣秀長が病死。秀吉の優秀な参謀だった秀長を失ってから豊臣政権は狂い始めます。秀吉は、明を征服して東アジアに君臨する構想を公然と言いふらすようになりました。

秀長派だった千利休素材千利休も死去すると、朝鮮出兵は一気に現実のものとなりました。

秀吉は、更なる知行(領地)加増を望む子飼いの家臣や、秀吉に従属した諸大名の要望に応える為、彼等の目を海外征服に向けさせ、これによって自己の政権を更に強化しようとしました。

秀吉の政権は、果てしない戦争体制によってのみ維持することができたのでした。[註1]

相関図 関連リンク

徳川家康家臣団織田信長家臣団朝鮮・明連合軍 文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍戦国武将一覧

関連トピック

補註

註1:北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆 (岩波新書) 』(岩波書店、2012年)参照