大将
豊臣秀吉
身分が低くいゆえ家臣がいなかったので、自分でせっせと集めたホームメイド家臣団。
家紋
五三桐(ごさんのきり)
側近
秀長・利休が政治顧問を務めた。秀長は大友宗麟に向かって「内々の儀は利休に、公儀の事は秀長に」と語った。この二人の死後、政権は朝鮮出兵に一気に突き進む。
豊臣秀長
秀吉の異父弟。人望があり秀吉に匹敵する程のいくさ上手。
千利休
秀吉の傍らで茶事を行ったので政治に巻き込まれ、結果的に秀吉の茶人兼側近になる。
軍師
黒田官兵衛
信長の時代は中国方面軍として秀吉の毛利攻めを支えた。文禄の役では本営の肥前名護屋の設計を担当。
竹中半兵衛
官兵衛より二つ年上で、秀吉家臣としては一〇年先輩。官兵衛と半兵衛で「ニ兵衛」と呼ぶことがある。
正室/側室
秀吉の妻妾は併せて二二人にものぼる。
北政所
きたのまんどころ。ねねとも言う。秀吉正室。加藤清正や福島正則らを幼少の頃が育て家臣団を支える。
淀殿(茶々)
一門衆
養子
豊臣秀次
秀吉の姉の長男。秀吉の子・鶴松の夭逝により、秀吉から関白職を譲られて聚楽第に入る。
小早川秀秋
金吾とも呼ばれる。北政所の姉の子。秀吉の養子になり、秀頼が生まれると、小早川家の養子となる。
親戚
木下勝俊(長嘯子)
若狭小浜城主。小早川秀秋の兄。武将業に興味がないので?豊臣一門だか目立たない。
五大老
秀吉の晩年(文禄四年)制定。職責は政務と軍務、五奉行の顧問、秀頼の後見人…などと言われているが、真の狙いは家康の力を、他の四人(利家・輝元・秀家・景勝)で封じ込めよう!というもの。
内府(ないふ)
徳川家康
秀吉存命中は影をひそめ、きほん内政干渉せず、力を温存中。
大納言
前田利家
秀吉ナンバー2。信長時代とは打って変わりきほん、ひっそりとしている。
中納言
毛利輝元
元就の孫。叔父の吉川元春と小早川隆景死後は、いとこの毛利秀元と共に時代の難局を乗り越えていく。
宇喜多秀家
父の直家死後、秀吉養子。特技は贅沢。文禄・慶長の役の総帥として朝鮮へ渡海する。
上杉景勝
伯父は謙信。小早川隆景死後に五大老に就任。その翌年、越後から会津に移封。
五奉行
行政を司る。検地は浅野長政・石田三成・増田長盛、財政は長束正家、京都奉行は前田玄以が担当。
浅野長政
五奉行筆頭。愛称・長吉。文禄の役では渡海しようとする秀吉に対し一喝して中止させた。
石田三成
秀次宿老
関白豊臣秀次の政治を支え、東海に重きをなす。山内一豊・堀尾吉晴・中村一氏・田中吉政ら。
山内一豊
遠江(静岡県)掛川城主。のちに土佐藩祖。鰹のタタキの起源は一豊にアリ?
堀尾吉晴
遠江浜松城主。のちに国宝・松江城を築城。人格者で仏の茂助と呼ばれている。
武断派
子飼い衆、尾張衆、譜代衆とも呼ばれる。小さい頃から秀吉に仕え、槍働きを得意とする。彼らは主に九州・四国の地を賜り、朝鮮侵攻の主力となす。関ヶ原の戦いは東軍につく。
子飼い衆
加藤清正
虎之助。賤ヶ岳七本槍。朝鮮侵攻に際しては予め家臣に、三五ヶ条に渡って武具の数など細かく命じる、几帳面な性格。
福島正則
市松。賤ヶ岳七本槍の一番槍にして一番首。しかし文禄の役では兵站の輸送、慶長の役は渡海せず戦場から遠ざかる。
加藤嘉明
孫六。清正とはたまたま同じ姓で血の繋がりはない。賤ヶ岳七本槍。朝鮮侵攻では水軍将として救国の英雄李舜臣と死闘を繰り広げる。
黒田長政
一〇歳で信長の人質となり、その後、秀吉に預けられ近江長浜で育つ。文禄・慶長の役の準主役的存在。
その他
脇坂安治
賤ヶ岳七本槍。清正・正則ら子飼い衆より一回り年長。朝鮮侵攻では加藤嘉明らと共に水軍将として奮戦。
浅野幸長
文治派
近江衆とも呼ばれる。石田三成を中心としたグループで、計理に明るい。大谷吉継、小西行長はじめ、増田長盛、長束正家、片桐且元など。関ヶ原の戦いは西軍につく。
大谷吉継
文禄の役では朝鮮奉行として三成と共に渡海。三成側と清正との対立は、朝鮮奉行として渡海後に始まる。
小西行長
文禄の役先鋒隊だが和議を成立させるため、明の外交家・沈惟敬と共に危ない橋を何度も渡る。
黒幕
西笑承兌
臨済宗相国寺派トップ。日輪の子=秀吉の発明者。文禄・慶長の役 参謀。
秀吉家臣団の特徴
身分低い出の秀吉には、譜代家臣などはいなかったため、自ら優秀な家臣をせっせとスカウトしては信長のように適材適所の役職に置くことが得意。
天下平定の半年後、秀吉弟の秀長が病死。優秀な参謀だった秀長を失ってから政権は狂い始めます。秀吉は、明を征服して東アジアに君臨する構想を公然と言いふらすようになりました。秀長派だった千利休も死去すると、朝鮮出兵は一気に現実のものとなりました。