プロフィール
文禄二年朝鮮出兵の最中に生まれ、捨て子はよく育つということで、お拾(ひろい)と名付けられる。(関係ないですが私の曾祖父は捨吉郎でその妻はカス。)
お拾の誕生後、豊臣秀長養子・秀保(ひでやす)が謎の死を遂げ、関白秀次は高野山で自害。秀吉の養子・羽柴秀俊は、小早川隆景の養子となり秀秋と名乗る。
慶長の役の只中で秀吉が死去。幼い遺児・秀頼と一門の運命はいかに――!?
詳細
1.鶴松夭折
豊臣秀吉は正室の北政所の他、何人もの側室がいましたが、子供が全くできませんでした。
天正一七年(1589)五月、淀殿二三歳くらいが秀吉五三歳の子・鶴松を出産。しかし二年後・同一九年八月に鶴松は三歳で病死しました。同年一二月に秀吉は、関白職を甥の豊臣秀次に譲り、太閤と称しました。
2.お拾誕生の余波
翌文禄元年(1592)四月、秀吉の命により日本の諸将が朝鮮へ出兵。同二年八月、淀殿が再び秀吉の子を出産。それがお拾(ひろい)、のちの秀頼でした。
お拾が生まれたあと朝鮮・明と一時停戦となり、同三年一月秀吉五八歳は、我が子・お拾に大坂城を与えるため、京に伏見城を築きました。
同四年四月、秀吉弟の秀長養子の秀保(ひでやす)が僅か一七で謎の死を遂げ、同年七月に二八歳の関白・秀次は高野山で自害させられました。
また、秀吉の養子・羽柴秀俊は、小早川隆景の養子となり秀秋と名乗りました。このようにお拾の誕生によって、豊臣一門がよからぬ方向に進行。その先に、慶長二年(1597)再びの朝鮮出兵がありました。
同三年、秀吉六二歳は秀頼五歳の好き嫌いにを理由に、侍女を処罰。秀頼に宛てた手紙には「中納言(秀頼)様の気にさわる者は死ぬほど叩きなさい」と書いてありました。
3.秀吉死後
同年八月、慶長の役の只中で父秀吉が死去。慶長四年(1599)一月、秀頼は伏見城より大坂城に移りました。
翌年九月の関ヶ原の戦いで、豊臣方が敗北し、天下の実権は徳川家康に移り、豊臣は摂津・河内・和泉三国を領するだけの一大名に収まりました。
二年後の同八年(1603)秀頼一一歳は、家康の孫で秀忠とお江の娘・千姫七歳と婚姻。
同一六年(1611)家康七〇歳は、秀頼一九歳を二条城に呼んで臣下の礼をとらせました。秀頼は身長六尺五寸(約197cm)、体重四三貫(約161kg)の大柄だったようです。久しく会ってなかった、成長した秀頼を見た家康は危機感をおぼえました。
4.大坂の陣の顛末
自分の目の黒いうちに豊臣を潰しておきたい家康は、同一九年(1614)一〇月に挙兵。大坂の陣において、豊臣方として真田幸村らが奮闘。翌年、秀頼二三歳は千姫一九歳を大坂城から逃がし、淀殿と一緒に豊臣家と共に自害しました。
秀頼と千姫の間には子供がいませんでしたが、側室の間には一男・一女がありました。家康はそれを知らなかったらしいです。落人(おちうど)狩りで、落城時に脱出した七歳の息女が捕まって、初めてそれを知った家康は男子探索を命令。
かくして国松(くにまつ)という八歳になる男子を、すぐに発見。家康の処分は、京都市中引き回しのうえ、六条河原で首をはねるという厳しさでした。ここに豊臣氏は滅亡しました。
豊臣秀頼 相関図
豊臣氏
側室:成田助直の娘との子
- 国松
- 天秀法泰尼(てんしゅう-ほうたいに):大坂落城後、千姫の養女。鎌倉の東慶寺に入り、のち住持。諸堂を再建し、男子禁制・縁切寺法の特権を守った。享年三七
家臣
ライバル
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「豊臣秀頼」247頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「大坂冬の陣・夏の陣」160-165頁
- 小和田哲男「豊臣氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)451頁