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戦国武将解説

豊臣秀頼(とよとみ-ひでより)

プロフィール

豊臣秀頼
Hideyori Toyotomi

日本一のボンボン。豊臣秀吉(たぶん)と淀殿(茶々)素材淀殿の子。正室は徳川秀忠お江の娘・千姫。

捨て子はよく育つということで、お拾(ひろい)と名付けられる。文禄二年、朝鮮出兵の最中に生まれる。文禄・慶長の役を考えるうえでも、まさにお拾誕生事件である。

お拾の誕生により、豊臣秀長の養子・秀保(ひでやす)が僅か17で謎の死を遂げ、28歳の関白・秀次は高野山で自害。秀吉の養子・羽柴秀俊は毛利家に養子出されて、小早川秀秋と名乗ることとなった。

我が子溺愛の余り、更に別方向に狂っていった秀吉が慶長の役の只中で死去。まだ幼い秀頼公の運命はいかに――!?

享年22(1593-1615)。徳川家康より50歳年下。同い年に家臣の木村重成

詳細

長男・鶴松の夭折

豊臣秀吉は正室の北政所の他、何人もの側室がいましたが、子供が全くできませんでした。しかし天正一七年(1589)五月、淀殿(茶々)素材淀殿が秀吉の子・鶴松を産みました。しかし二年後・同一九年八月に鶴松は夭折しました。同年一二月に秀吉は関白職を甥の豊臣秀次豊臣秀次に譲り、太閤と称しました。

お拾誕生事件

翌文禄元年(1592)四月、文禄の役が始まり、日本の諸将が朝鮮へ出兵しました。同二年八月、淀殿がまたしても秀吉の子(たぶん)を産みました。それがお拾(ひろい)・のちの豊臣秀頼秀頼です。お拾が生まれたあと、朝鮮・明と一時停戦となりました。同三年一月、おん年五八歳の秀吉はかわいい我が子・お拾に大坂城を与えるため、京に伏見城を築きました。

同四年四月、秀吉の弟・豊臣秀長豊臣秀長の養子・秀保(ひでやす)が僅か一七で謎の死を遂げ、同年七月に二八歳の関白・秀次は高野山で自害させられました。また、秀吉の養子である羽柴秀俊は毛利家に養子に出され、のちに小早川秀秋小早川秀秋と名乗りました。お拾の誕生によって、一門を中心に豊臣家がまた別の方向に狂っていったのでした。

秀吉死後

慶長二年、朝鮮再出兵となりましたが、秀吉は同三年八月、戦争の只中で死去。同四年一月、秀頼は伏見城より大坂城に移りました。

翌年九月の関ヶ原の戦いでは、豊臣軍の敗北に終わりました。勝者の徳川家康徳川家康は、秀頼は大坂城で甘やかされて育っているという風聞を聞いていたので、この勢いで大坂城も易々と潰せると思っていました。しかし久しく会ってなかった、成長した秀頼を見た家康は、その聡明な姿にこれはちょっとヤバイかもと思いました。

秀頼の正室は、家康の孫、すなわち徳川秀忠徳川秀忠お江(小督、江与)素材お江の娘・千姫でした。豊臣家と徳川家が争わないようにということで、政略結婚でしたが秀頼と千姫は仲良くくらしていました。

しかし自分の目の黒いうちに、後顧の憂いがないよう、豊臣家を潰しておきたい家康は、大坂城を囲みました。大坂の陣。配下の真田幸村真田幸村らが奮闘するも、時代の趨勢は徳川にありました。秀頼は千姫を大坂城から逃がし、淀殿と一緒に豊臣家と共に自害しました。誕生のその瞬間から、波乱な生涯を運命付けられていた豊臣秀頼でした。

豊臣秀頼 相関図

家族

お父さん:豊臣秀吉豊臣秀吉/お母さん:淀殿(茶々)素材淀殿

側近

木村重成

味方

お世話になった武将:加藤清正加藤清正

豊臣家の為、命を張って戦ってくれた武将:真田幸村真田幸村

ライバル

徳川家康徳川家康徳川秀忠秀忠本多正信金地院崇伝

豊臣家の為、命を張って戦ってくれた武将:真田幸村真田幸村

  

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豊臣秀頼

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