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プロフィール
美濃国(岐阜県)出身の武将。正式名は重治(しげはる)。幼名は重虎。
後世、軍師としてもてはやされるが、組織に向かないタイプ。
斎藤龍興の家臣だったが、龍興の素行がよくなかったので、改心してもらおうと二一歳でクーデターを起こす。
自分は謀反人だからと隠棲後、美濃を掌握した織田信長に仕え、秀吉の与力に付けられる。同僚の黒田官兵衛を得たところで、残された時間は僅かだった――
詳細
1.一七歳で家督
半兵衛は、肖像の通り色白で女性のような容貌、性格も控えめのようでした。
父重元は美濃(岐阜県)菩提山に砦を構える岩手氏を落とし、ここに築城。重元の病死に伴い、永禄三年(1560)一七歳で家督を継ぎ、斎藤家に出仕しました。道三の代から斎藤家の庇護を受けていましたが、三代目の龍興(たつおき)は身長二メートル近い大男。
それはいいのですが、半兵衛の見た目を馬鹿にし、酒色にふけ、素行がいいとは言えぬ人物でした。
2.二一歳でクーデター
同七年(1564)半兵衛二一歳は、龍興の小姓をしている弟・久作(重矩)に重病人のふりをさせ、看病と称して医薬品をつんだ荷駄を城内に運び込みました。その中には武器が隠されていました。
重治は一六人の家臣を従えて登城。中に入ると城内の武将ら数十人を斬り倒し、龍興一七歳は動転して城外へ逃げ出しました。重治は奇襲をもって、あっという間に城を乗っ取ってしまいました。
半兵衛は別に稲葉山城がほしかったわけではないので、あっさり城を龍興に返上。しかし自分は謀反人だからと居城の菩提山城を久作に譲り、近江伊吹山の麓に隠棲しました。
同一〇年(1567)織田信長三四歳に攻められてた龍興二〇歳は伊勢に逃れ、信長は美濃を手に入れました。
3.二四歳で秀吉与力
半兵衛は義父の世話で信長に仕え、翌年二四歳の時に羽柴秀吉三二歳の与力に付けられました。信長の気性の激しさに、自らお役御免を願い出ようと思っていた矢先のことでした。
半兵衛は毛利攻めの際に秀吉に意見を述べます。秀吉は細かいことまで信長に報連相(ホウレンソウ)、いちいちお伺いを立てました。そこまでしなくてもと思った半兵衛は、いつか機会を見て浪人になりたいと思いました。
天正五年(1577)には黒田官兵衛三二歳が秀吉の共にやってきて、共に秀吉を補佐。それにしても、この両兵衛の軍師としての通説は、実際より誇張されている場合も少なくないようで注意が必要です。
4.長政一〇歳を救出
同年、織田の外様大名で有岡城主荒木村重が石山合戦中に謀反を起こすと、官兵衛は村重を説得し有岡城に赴きました。しかし逆に村重に捕らえられて有岡城の牢に幽閉されてしまいました。
信長は村重と官兵衛と通じていると勘違いして、秀吉が預かっている官兵衛長男の松寿丸一〇歳(のちの長政)を秀吉に殺せと命令。半兵衛は松寿丸は私が殺します、と松寿丸を秀吉から預かりました。
播磨攻めの陣中で病に倒れた半兵衛三六歳。官兵衛は救出され、松寿丸にも出会えましたが、半兵衛はもうこの世にいませんでした。
竹中半兵衛 相関図
竹中氏
- 父:重元(しげちか)、母:妙海大姉
- 弟:重矩(しげのり)
- 妻:徳月院殿(とくげついんどの:安藤守就の娘)
- 子:重門(しげかど、妻は加藤光泰の娘)
- 孫:重常、重次
主君
秀吉軍団
参考文献
- 江崎惇「竹中半兵衛」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)94-95頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「竹中重治」252頁
- 『戦国覇王』戦国大名篇(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)