プロフィール
慶長の役に二二歳で渡海。秀吉の命で、慶尚道・蔚山(ウルサン)の築城工事を担当。
完成後に清正に引き渡す予定だったが、工事半ばで明の楊鎬と麻貴及び朝鮮の権慄ら率いる六万に包囲され、清正と共に苦しい籠城戦を展開した。
帰国後、関ヶ原の戦いでは家康に組して、功により紀伊国三七万余石を得て和歌山城主。
一方で豊臣秀頼を擁護するが、まだ若い幸長の余命はそう長くはなかった――
詳細
1.能登に流される
幸長は父・浅野長政と母・浅野長勝娘の長男として天正四年(1576)に近江(滋賀県)坂本に生まれました。
早くに羽柴秀吉に近侍し、天正一七(1589)一四歳の時に従五位下左京大夫に叙任。翌年の小田原攻めでは、三千の兵を指揮して父・長政に属し武蔵国岩槻城攻略に活躍しました。
秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月に日本の諸将が朝鮮へ侵攻。幸長一七歳は肥前名護屋の秀吉の本営に従軍しました。
翌年一一月、父長政と共に甲斐国を与えられて一六万石を分領しました。
しかし文禄四年(1595)二〇歳の時、関白・豊臣秀次の失脚事件の時、妻の姉が秀次の妾だったという関係から連座の罪に問われて能登に流されました。かつて前田利家の五女と婚約した関係で、利家と北政所(秀吉室)との尽力あって翌慶長元年(1596)閏七月恩赦されました。
2.慶長の役 緒戦
慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより幸長二二歳は六月に渡海。
秀吉の指示で西生浦倭城に配置されたので、翌月ここに着陣しました。
同年八月はじめ、日本軍は総大将・小早川秀秋を釜山に留め、軍全体を左右に分けて、宇喜多秀家を総帥とする左軍は穀倉地帯の全羅道へ。
毛利秀元を総帥とする右軍の加藤清正・幸長・黒田長政らはソウルを目指して兵を進めました。
同月一六日、宇喜多秀家率いる左軍は南原城を落とし、同じころ右軍先鋒の清正は慶尚道・黄石山(ファンソクサソン)城をあっさり落としました。しかし翌月七日、経略・楊鎬の指令で明軍は、稷山で黒田長政と秀元の軍のソウル再侵入を阻止しました。
3.蔚山倭城の築城工事
同年一一月より加藤清正・幸長らは、慶尚道・蔚山(ウルサン)に倭城の築城工事をスタートさせました。
普請は幸長と毛利秀元家臣の宍戸元続が担当。軍目付は太田一吉。完成後に城を清正に引き渡し、清正は蔚山を軍事拠点にするという、秀吉の指示あってのことでした。
この普請は医僧・慶念の日記によると「日本から連れてきた農民を朝から晩まで城普請の材木採りに駆り立て、その労役を怠ったり、逃走する者あらば首枷をかけ焼金(火印)をあてる、またはその首を斬る」という過酷さでした。
4.蔚山の戦い
明の邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは、日本軍のシンボリックな存在・清正。
これに都元帥・権慄も朝鮮軍を率いて加わり同年一二月二三日、明・朝鮮連合軍六万の大軍が日本軍二千余が籠る普請半ばの蔚山倭城を囲みました。
しかしこのとき清正は西生浦倭城にいて、城内の幸長・宍戸元続・太田一吉らは防戦にあたりましたが、一吉は傷を負いました。
蔚山の急を聴いた清正は西生浦から船で急ぎ駆けつけ、二四日に蔚山に入城。
しかし明・朝鮮連合軍に水道を立たれた城中は水も米もなく困窮しました。楊鎬は降伏を勧告する文書を作製。これを清正の元家臣で降倭の沙也可に持たせました。
沙也可は騎馬で蔚山の近くまで行き、日本語で名乗り、城を明け渡し退散すれば軍兵の命は助かると清正に勧告。日本軍は戦闘能力も士気もなくなっていたので、清正は和議に応じることを決意しましたが、幸長は「敵情量リカタシ」と反対。
それでも清正が和議に応じようとしたところ、年明け二日に毛利秀元・黒田長政ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。
五日、楊鎬が全軍に撤退命令を出して一〇日余続いた蔚山籠城戦はついに終了。しかしこの戦いにより日本軍は一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。幸長は同年(慶長三年)四月に帰国しました。
5.関ヶ原の戦い
慶長五年(1600)閏三月、豊臣の大黒柱・前田利家が大坂城で病死。これを機に加藤清正・黒田長政・福島正則・加藤嘉明・細川忠興・幸長二五歳らは、反派閥の石田三成を大坂で襲い、三成を佐和山に引き籠らせました。
関ヶ原の戦いには先鋒となって岐阜城を攻め、関ヶ原の決戦に参加。戦後、紀伊国三七万余石を得て和歌山城主となりました。
同一五年(1610)幸長三五歳は、名古屋築城に参加。翌一六年三月、豊臣秀頼と家康の二条城会見に従いました。翌月に父長政が死去し、六月には清正が死去。幸長は同一八年八月に和歌山で死去する最後まで秀頼を擁護しました。享年三八。跡継ぎなく弟の長晟(ながあきら)が継ぎました。
幸長は稲富一夢に砲術を学んで「天下一」と称されるほど武術に秀でて、また孝心厚く父・長政のために盛大な葬儀を営みました。それは、儒者の藤原惺窩の影響もあったかもしれません。
6.藤原惺窩との交遊
惺窩の弟子・林羅山に曰く「この歳(慶長一一年)、先生(惺窩四六歳)、南紀(なんき:紀州)に赴く。蓋(けだ)し太守浅野幸長、これを招けばなり。その待つところ、太(はなは)だ謹(つつし)めり。
弱浦(わかのうち)に菅神(かんしん:菅原道真)の廟(びよう)あり。太守、先生に講ひて、その碑銘(ひめい)を誌(しる)さしむ。
また太守のために経書の要語(ようご)三十件ばかりを抄(しょう:抜書き)し、倭字(わじ)の註解を添へて、一小冊(惺窩著『寸鉄録』のこと)として、褚(ふところ)に寘(お)くに便(べん)にし、顧諟(こし)に備ふ(政治をする際の参考にした)。
これ為政(いせい:政治)の存心(そんしん:心中のおもい)、資治(しち)の守約(しゆやく)なり。太守、甚だ喜ぶ。…その、太守の盻睞の渥厚(べんらいのあくこう:てあつく目をかける)なるを以ての故に、紀に遊ぶ。冬に往き、春に還ること年あり。
…十八年癸丑、秋八月、紀州の太守浅野行長、不禄(ふろく:死)す。先生、これを哀しみ、乃ち往きてこれを弔(ちよう)す。太守の歯骨(しこつ)を高野山に埋むを以ての故に、先生、遂に鼎峰(ていほう:同山金剛峯寺)に登り、哭(こく)し畢(おわ)つて帰る。[文献6]」