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戦国講座

奥州仕置とは 葛西・大崎一揆VS豊臣with政宗?

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1.伊達氏と葛西・大崎氏

天文期頃の宮城県(葛西・大崎・伊達氏)勢力図
図1:天文期頃の宮城県_勢力図

戦国時代の宮城県は、南に伊達氏、北に大崎氏、東北に葛西氏という大勢力がありました。

葛西氏は北上川中心に、牡鹿(おしか)郡から岩手県の胆沢(いさわ)郡にまで及ぶ広大な領域の大名。大崎氏は奥州探題職(たんだいしき)を世襲して、その求心力を以て大崎五郡を領有。

登米(とめ)郡寺池(宮城県登米市)城主の葛西晴信は、米沢城主(山形県)の伊達政宗伊達政宗と同盟し、隣接する玉造郡名生(みょう:宮城県大崎市)城主の大崎義隆と対立。元亀二年(1571)、天正元年(1573)の喉、義隆を破り栗原郡(同県北西部)三迫(さんのはざま)地方に勢力を拡大しました。

然しながら戦国時代末期の南奥すなわち福島県から宮城県一帯におよぶ地域は、政宗によってほぼ統一されており、独立していたのは福島県の相馬氏ぐらいでした。

2.なてきり令

天正一八年(1590)七月、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉豊臣秀吉は、会津下向の途中の宇都宮で、小田原合戦に参陣しなかった葛西・大崎両氏の所領没収のことを決定。

ただちに直臣の木村吉清(よしきよ)を派遣し、それに浅野長政浅野長吉(長政)・石田三成石田三成蒲生氏郷蒲生氏郷らを加えて仕置を開始。伊達政宗はその案内を命じられました。

同年八月一二日付の会津における仕置令は、「なてきり令」として有名。国人ならび百姓共に合点がいくようによくよく申し聞かせ、これに抵抗するものがあれば「一人も残さず撫切り」にするという、過酷なものでした。また、このときの仕置は秀吉の指示どおり、検地・刀狩をともなうものであったと考えまれます。

3.豊臣奉行と新領主

実際の検地は、葛西・大崎の諸郡は木村吉清、和賀・稗貫の諸郡は長吉、黒川郡は伊達氏で検地が行われ、出羽国では庄内諸郡は上杉氏が担当奉行でした。

そのほか奥州浜通りは三成・増田長盛、出羽諸郡は前田利家前田利家を総奉行として、上杉景勝上杉景勝大谷吉継大谷吉継・木村常陸介がこれを援けました。

没収地は、会津・安積・岩瀬の三郡は蒲生氏郷に、葛西・大崎の諸郡は木村吉清・吉久父子[]、最上氏と上杉氏の激突の場であった出羽国庄内地方は上杉氏に与えられました。

豊臣政権と奥州大名の中に立つ政宗としては、これまで敵対関係にあった大崎氏はともかく、同盟を結んでいた葛西氏の処遇は最も困難な問題でした。葛西晴信は、必死の抵抗を試みるも衆寡敵せず。大崎義隆四三歳は三成の指示で京都に上り、葛西晴信も後に上洛し、その後、両人とも越後の上杉景勝に寄寓しました。

4.葛西・大崎一揆

それにしても木村吉清の治世は非道極まり、葛西・大崎一揆が勃発。

一揆は最初、葛西領の胆沢郡柏山(岩手県金ヶ崎町)におこり、木村吉清の家臣が殺され、気仙郡および磐井郡東部に広がり、また江刺郡でも蜂起。大崎領では同年一〇月一六日に、岩手沢(いわてさわ:岩出山町)で最初の蜂起がありました。

一揆勢に攻めたてられた木村吉清・吉久父子は、栗原郡佐沼城で籠城を強いられ、一揆討伐の目標はまず木村父子の救出に絞られました。

浅野長吉は、白川郡白川で一揆蜂起の報せを聞き、一揆退治をするよう、政宗と氏郷に指令。しかし氏郷は大崎義隆の居城であった玉造郡名生(みょう)城を攻略し、ここに籠城してしました。伊達家の家臣・須田伯耆(ほうきという者が、政宗の謀反、一揆勢へ同心を氏郷に密告したからでした。

木村吉清父子は、政宗により救出されました。しかし氏郷の政宗へ疑念は晴れず、伊達成実が人質として、氏郷籠る名生城に行きました。これにより、氏郷は名生城を出て居城の二本松に戻りました。

5.再討伐

米沢に帰った政宗は、翌年六月一四に葛西・大崎の再討伐に出陣。昨年冬にはじまった九戸政実の乱の討伐を含む、豊臣秀次豊臣秀次を主将とする大討伐軍でした。

また、戦いは秀吉の指示通り撫(な)で斬り。かくして同月の宮崎城(宮崎町)での戦い後は、城主や主だった人々の首八一ほか、一三〇人分の耳鼻が目録とともに京都に送られました。

木村吉清は救出されたものの改易、葛西・大崎の旧領は氏郷と政宗に恩賞として与えられました。二分して六郡、加増でしたが政宗は居城のある本領を失い、九月二三日、米沢城主だった政宗は岩手沢城(のちの岩出山城)に入部。仙台に移るまで一二年間、この城に住みました。

補註:木村吉清

木村吉清・吉久父子は、どういう身分の者か詳らかでない。

「氏郷記」によれば木村氏は明智氏の旧臣で、蒲生氏郷の推挙によって大名になり、早くから秀吉の側近として政宗の参礼について奔走。奥州仕置に当たっても、浅野長吉の下で政宗の指南を勤めていた。その功績によって葛西大崎十二郡を与えられたが、もともと小身であり、譜代の家臣等も多くなかった[文献3]。

相関図:奥州仕置

在地大名

  • 葛西晴信:登米(とめ)郡 寺池(宮城県登米市)城主。生没年不詳。
  • 大崎義隆:玉造郡 名生(みょう:宮城県大崎市)城主。奥州探題大崎氏最後の当主。1548生~1603没。
  • 伊達政宗:米沢城主。葛西・大崎一揆と上方仕置軍の間で、つらい立場にあった。

上方仕置軍

在地 新大名

  • 木村吉清[]:秀吉から葛西・大崎領を賜る。浅野長吉以下の上方勢が上洛すると、一揆に攻められる。
  • 蒲生氏郷:会津若松に入部した、奥羽の鎮めの大名。

検地奉行

  • 浅野長吉(長政):和賀・稗貫郡(岩手県中西部)担当。政宗指南役でもある。
  • 石田三成:増田長盛と共に奥州浜通り担当。

再討伐軍

  • 豊臣秀次:総大将。葛西・大崎一揆の再討伐ほか、九戸政実(岩手県)の討伐も含まれる。

参考文献

  1. 大石直正「5章3 葛西・大崎一揆」・渡辺信夫「6章1 仙台開府」『宮城県の歴史(県史4)』(山川出版社、1999年)133(戦国期宮城の勢力分布図)、141-152頁
  2. 黒田和子『浅野長政とその時代』(校倉書房、2000年)「第八章 奥州仕置」206-212頁、「第九章 葛西大崎一揆」217-225、227頁
  3. 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「葛西晴信」105、「大崎義隆」106頁

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