プロフィール
越後(新潟県)の戦国大名にして、ラスト関東管領[註]。血液型AB。酒飲み。
幼名を虎千代(とらちよ)といい、末っ子のため禅寺に出されて、天室和尚のもとに学ぶ。乱れた国内鎮圧のため、病弱の兄に代わって一四歳で初陣。鎮圧後、家督を継ぐ。
信濃へ侵攻した甲斐の武田信玄に城を落とされた村上義清らが謙信を頼り、一二年間、五度に渡って武田軍と川中島にて対陣。
相模の北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政も謙信を頼り、憲政を伴い大軍を率いて小田原城を包囲する。
詳細
1.毘沙門天を授かる
越後守護代・長尾為景(ためかげ)の末の子として生まれた虎千代(謙信)。長男晴景(はるかげ)は謙信より一八歳上で病弱。姉の仙桃院(せんといん)はのちに景勝を生みました。
父為景の命で、家督でない虎千代七歳は長尾氏の菩提寺である、春日山麓の曹洞宗林泉寺(りんせんじ)に出されました。母の虎御前(とらごぜん)は信仰熱心で、余り抵抗がなかったようです。
同寺住職の天室光育(てんしつ-こういく)が教育にあたり、坐禅、四書五経、漢詩、和歌などを学び、天室和尚はまた毘沙門天像を授けました。
謙信の軍旗は毘の一字。また謙信は生涯独身でしたが、禅僧は独身で過ごすことが少なくありませんでした。
父為景は打ち続く内乱鎮圧に疲れ、病にかかり家督を晴景に譲って隠居。その四ヶ月後に春日山城で死去しました。
2.一四歳で初陣
猛将の父為景の死によって、下越の揚北(あがきた)衆が蜂起して反乱。揚北衆は上杉軍団の主力である国衆の一、領地があって自立心も高いのでした。
天文一二年(1543)虎千代一四歳は、元服して平三景虎と改名。病弱な兄晴景に代わって三条城に出陣。揚北衆は「実践経験のない禅僧のたまご」と侮りました。
景虎は三条城から栃尾城(新潟県)まで進軍。攻め寄せていた揚北衆を諸将の協力を得て撃退し、初陣を飾りました。諸将たちはもちろん、揚北衆の国人までも景虎の武勇に心服。
景虎の威勢をおそれた晴景ですが、越後守護・上杉定実(さだざね)の調停により晴景はやむなく景虎を養子にして隠居。同一七年(1548)景虎一九歳は家督を継いで越後守護代となり、春日山城に入りました。
3.村上義清を救援
このころ甲斐の武田信玄は信濃へ侵攻し、同年二月には信濃国守護で深志(松本)城主の小笠原長時は、筑摩郡塩尻峠で戦いましたが武田軍に敗退しました。
信濃(埴科郡)葛尾(かつらお)城主村上義清は、武田軍を連戦撃退していましたが、同二二年(1553)葛尾城は攻略されました。
窮地に追い込まれた小笠原長時と村上義清たちは景虎を頼りました。これら武将の希望で景虎は出兵。同年四月~永禄七年(1564)一〇月までの一二年間、五度に渡る川中島の戦いの発端でした。
4.二度の上洛
天文二二年(1553)景虎二四歳は上洛して、足利義輝将軍と後奈良天皇に謁見。前年に弾正少弼という位を叙位された礼として金銀ほか太刀、馬などを献上しました。
越後国内では士気の低下と内紛が激化したたため弘治二年(1556)六月、景虎二七歳は守護職を放棄して、突然出奔してしまいました。しかし(仙桃院が夫人の)長尾政景らが帰国を要請したため、景虎は国人領主に誓紙と人質の提出を条件で出家を思い止まりました。
永禄二年(1599)景虎三〇歳は再び上洛し、朝廷や将軍家などの中世的権威を擁護する立場を鮮明にしました。
5.小田原城包囲
翌年、相模の北条氏康に河越合戦おいて敗れた関東管領・上杉憲政(のりまさ)が景虎を頼って越後に亡命。同三年(1560)景虎三一歳は憲政を伴い大軍を率いて関東に侵攻し、翌年三月に小田原城を包囲しました。
謙信は大磯に本陣をおいて、約一か月近く攻撃を続け、小田原城四門の一・蓮池門にまで肉迫。その間、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣、憲政より関東管領を継承し、上杉政虎と改名。一方で兵馬は疲れ、矢種、兵粮は残り少なくなったため、小田原からやむなく引き揚げざるを得ませんでした。
6.第四次 川中島の戦い
越後に帰国した政虎はすぐに信濃に出陣。同年九月に川中島で退陣。この第四次戦で、信玄弟の信繁や山本勘助らが戦死しました。翌年、将軍足利義輝の一字を賜り、輝虎と改名。
輝虎は酒豪でしたが、三六歳で左足が動かなくなると、以前よりも酒の量はめっきり増えました。
永禄一一年(1568)信玄の駿河侵攻で甲相駿三国同盟が破られました。怒った駿河と相模は経済制裁として、山国にいる信玄への塩の供給をストップ。このとき(作り話らしいですが)輝虎が塩を送った、のでした。
北条による越相同盟が成り、元亀元年(1570)氏康の子・三郎が送られてきました。輝虎四一歳は、人質は好きではないと三郎を養子にして、景虎の名を与えました。また輝虎はこの頃から謙信を称するようになりました。
7.信玄死去
中央では永禄一一年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしました。将軍となった義昭は、支援者・信長と次第に関係が悪化。一方、天台宗総本山延暦寺焼き討ちなど信長の振る舞いは、代々天台宗を信仰してきた信玄の怒りもかっていました。
元亀二年(1571)北条と武田は和睦。義昭は信玄に上洛を促し、信玄は北条方の援軍を合わせて三万の大軍をもって西上。信長はこれを恐れ、謙信と同盟。しかし天正元年(1573)信玄五三歳が西上途中で病死しました。
この報に際して「英雄人傑(じんけつ)とは信玄のような人物をいうのだ」と謙信四四歳は涙をボロボロ流したそうです。
8.織田軍との戦い
その後、謙信は越中を平定。信長は信玄西上を恐れて謙信と同盟していましたが、同四年(1576)謙信四七歳は信長との同盟を絶ちました。かくして謙信は、打倒信長を掲げる石山本願寺及びその麾下の加賀一向一揆と結んで、能登に侵攻。まるで信玄の遺志を受け継いでいるかのようです。
かつて謙信は二度上洛、足利義輝将軍から一字賜り輝虎と称した時期もありました。信長が義昭を追放したことに腹を立てて信長討伐を決心したのでした。
翌年九月に能登七尾城を落とし、加賀に進駐した織田軍と加賀の湊川(手取川)で戦い撃破。毛利氏と連合して信長と対決しようとしましたが、同六年(1578)三月、春日山城にて脳卒中によって倒れ死去しました。享年四九。
上杉謙信 相関図
上杉氏被官・長尾氏
- 祖父:能景(よしかげ)。越後守護代。
- 父:為景、母:虎御前(青岩院)
- 兄:晴景、姉:仙桃院
- 甥:景勝(姉の子)
- 家臣:直江兼続
諸国の武将
儒教と謙信
謙信が幼き時に身に着けた四書五経とは経書(漢籍)、儒教である。
文献1・151頁「林泉寺には輝虎直筆「第一義」が残されている。自身を仏教における四天王のひとりで武神である毘沙門天の化身と信じ、神仏の加護を願って「義」のために戦いに明け暮れた」とあるが、義とは単純に、仁に続く儒教徳目ではなかろうか。
謙信辞世の句「一期の栄は一盃の酒、四十九年は一酔の間、生を知らず死また知らず、歳月またこれ夢中の如し」は『論語』先進12「未知生、焉知死(いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らん)」を想起できる。
神仏の観点ばかりから謙信を捉えようとすると、却って彼の教養の深みを見誤る恐れがあるように思う。ちなみに『論語』郷党08に乱れなければ酒の量は問わない。
補註
関東管領職は上杉氏の世襲で、謙信死後順番からすれば景勝である。しかし滝川一益は「甲斐の武田攻めに先鋒として活躍し、その功によって武田の旧領のうち上野(こうずけ:群馬県)一国と信濃の内」に二郡「与えられ、しかも関東管領に任じられていた。」と文献4にある。
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「上杉謙信」148-151頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「余計ものとして生まれ、坊主になるはずだった謙信」201-202頁、「謙信の師は天室光育」386-387頁
- 千坂精一「上杉謙信」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)58-59頁
- 下山治久「第五章 氏直」『歴史群像シリーズ14 真説 戦国北条五代』(学習研究社、1989年)162頁