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プロフィール
尾張(愛知県)出身。越前北ノ庄(福井県)城主。通称・権六。
織田家の顔とも言える猛将。
信長の妹であるお市の方と夫婦になり、お市の方の連れ子である三姉妹の淀殿、お初、お江の義理の父親となる。
槍働きだけでなく、北ノ庄の新田開発、道路の開墾など民政にも力を入れた。信長死後、賤ヶ岳で秀吉と対決するが――
詳細
1.一向一揆攻め
勝家ははじめ、信長のすぐ下の弟・織田信行に属して信長と敵対していました。その後、信長に赦(ゆる)されて信長の家臣となり、永禄三年(1560)桶狭間の戦い、元亀元年(1570)姉川の戦いに従軍。
顕如との石山合戦において、元亀元年(1570)伊勢(三重県)長島の一向一揆を攻めるも織田軍は敗北。翌年織田軍は再度挑むも、氏家卜全(ぼくぜん)は討死、勝家は負傷しました。
天正三年(1575)越前一向一揆攻めに功があり、同年北ノ庄(福井県)城主。同七年(1579)八月加賀の一向一揆は勝家によって滅ぼされ、同八年本願寺の降伏などがあり、翌年門徒三〇〇余人が磔刑に処せられました。
2.民政家として
信長から越前の支配を任された、北ノ庄城主の勝家。これには府中三人衆と言われる前田利家・佐々成政・不破光治が目付として配置され、相互監視の体制がとられました。
勝家は新田開発につとめ、検地を施行し、北国街道から柳ケ瀬(滋賀県)に通じる道路の開墾を行うなど、民政にも力を入れました。
また一揆に加わった門徒農民から没収した武器を農具に打ち直し、九頭意川の船橋をつなぐ鎖にしたようで、これは秀吉の刀狩令の先駆という評価も受けています。
3.お市の方と結婚
信長が明智光秀に討たれた本能寺の変のあと、勝家は越後の上杉景勝と対峙。
そんな勝家と対象的に機知に富む秀吉は、毛利氏(小早川隆景)と対峙していたにも関わらず、急ぎ京に向かって駆け出し、あっという間に山崎で光秀を倒してしまいました。
その後の尾張(愛知県)清州城で行われた信長の後継者を決める清州会議では、秀吉に主導権を奪われ、ここでも勝家は大きく水をあけられました。
然しながら信長三男・信孝の勧めで、浅井長政の未亡人となっていたお市の方が勝家に嫁いできました。お市の方は信長の妹で、浅井長政との間にできた三姉妹茶々・お初・お江も連れて来ました。
4.賤ヶ岳の戦い
信長の後継者をめぐって、天正一一年(1583)四月、近江(滋賀県)の賤ヶ岳(伊奈郡)において柴田勝家軍二万と秀吉軍三万が争いました。勝家軍は先鋒の佐久間盛政(勝家の甥)ほか滝川一益、佐々成政、信孝ら。
勝家は柳ヶ瀬付近、秀吉は賤ヶ岳を占拠して対峙。そのうち岐阜の信孝が挙兵し、秀吉が岐阜に向かいました。そこに佐久間盛政によって夜襲をかけられた、秀吉軍・中川清秀四二歳が戦死。かくして岐阜の秀吉は、物すごいスピードで転進、再び近江に向かいました。一方、タカをくくって本陣に戻らない盛政。
近江に着いた秀吉は全軍で反撃に移り、突撃してくる秀吉の大軍を見て盛政は慌てふためき逃げますが、部隊最後尾の柴田勝政(盛政弟)軍が追いつかれ、それが引き金となって盛政軍は総崩れに。
戦う前には、勝家軍の利家が秀吉と内通。勝政軍が崩れるのをなんとか盛政が躍起になっているとき、彼等の後方にいた利家軍が退却。このとき秀吉軍で大活躍したのが、福島正則・加藤清正ら賤ヶ岳の七本槍でした。
勝家は敗走せざるをえなく、秀吉軍は敗走中の勝家本陣を側面から攻撃し、大打撃を与えました。家族待つ北ノ庄城に逃れました勝家でしたが、追撃してきた秀吉軍に城は包囲されました[地図2]。
勝家とお市の方は、まだ将来のある三姉妹を城の外に出し、秀吉方へ送り届けました。城の天守閣に火にかけた勝家は、お市の方とともに命を絶ったのでした。
柴田勝家 相関図
柴田氏
- 父:勝義(かつよし)、母:?
養子
- 勝久(勝家の妹の子)
- 勝政(佐久間盛政の弟)
- 勝豊(勝家の姉の子)
新たな家族
織田氏
越前支配
賤ヶ岳の戦い
参考文献
- 国史大辞典編集委員会 編集 『国史大辞典7』(吉川弘文館、1990年 )
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社 、2000年)「賤ヶ岳の戦い」132-137頁