プロフィール
安芸国(広島県)の戦国大名。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。
弟を殺害して家督を継ぐ。息子らは他家に出して同盟・姻戚関係を結ぶも、次男元春の養子先の吉川父子を謀殺。譜代の井上父子と一族も誅殺。
大内氏家臣・陶晴賢が謀反し、山陰地方の最大勢力を誇る。一方で元就が安芸、備後へ進出したことによりに対立。
厳島において晴賢の軍勢を、更に尼子氏を滅ぼし中国最大勢力となるが、秀吉の時代になり却って広げすぎたか――?!
享年75(1497-1571)。同世代は斉藤道三。
詳細
1.三本の矢
元就が大河ドラマに決定した昔、私は誰、もうりもとじゅって?!と漢字すら読めませんでしたが「三本の矢」の逸話は知っていました。
これは史実ではなく三本の矢の例えはありませんが、三兄弟の結束を諭した元就自筆の「三子教訓状」は存在します。それにしても後述の相関図に示すように、三兄弟のほかに子供はいて、秀包(ひでかね)に至っては元就七一歳のときの子です。
2.親族次々死去
毛利氏は安芸国(広島県)土豪でしたが古い家柄。毛利弘元の次男として元就こと松寿丸(しょうじゅまる)が誕生。しかし五歳の時に母が、一〇歳の時に父・弘元が他界。弘元側室・お杉が育ての母となり、また元就が最も敬愛した人でした。
初陣は二一歳、二〇歳の時に兄の興元(おきもと)とその子が相次いで死去。家督にあたったては、異母弟の元綱を嗣子(しし)にしようとする勢力がありました。元就はこれを粛正し、弟を殺害。大永三年(1523)二七歳で家督を継ぎ、郡山城主となりました。
毛利氏は出雲(島根県)の尼子氏と周防(山口県)の大内氏の大勢力に挟まれていました。元就の家督相続の件で尼子氏が元綱を推したことから、元就は尼子晴久から大内義隆に接近してこれに属しました。
3.井上、吉川父子殺害
元就の妻は、安芸(広島県)山県郡大朝(おおあさ)の国衆・吉川元経(きっかわ-もとつね)の妹の妙玖(みょうきゅう)。妙玖との間に長男隆元、次男元春、三男隆景が生まれ、元春一八歳は吉川氏へ、隆景一二歳を小早川氏に出して同盟関係を結びました。
当時の毛利氏は、似たような勢力の土豪――国人が相当数いました。吉川氏もその一つでしたが、彼らを家臣団に入れるのに最も苦心したのは、元就の傅役(もりやく)を務めた井上元兼。
毛利譜代の井上氏は独立性が強く、強大な経済力を背景にその勢力を誇りました。天文一九年(1550)元就は元兼と息子を殺害、一族三〇余名とともに誅殺し、家臣の支配体制を固めました。
また元就の命で次男元春は、養子先の一四代吉川興経(おきつね)を引退させ、同年二一歳のときに家督を継ぎました。半年後に元就は、興経親子を謀殺して吉川氏の乗っ取りに成功しました。
4.厳島の戦い
遡ること天文一一年(1542)元就四六歳は大内義隆の尼子攻めに従軍。このときの大敗をきっかけに義隆側近・陶晴賢が主家の大内氏を滅ぼし、山陰地方の最大勢力を誇っていました。元就は晴賢に従っていましたが、元就が安芸、備後へ進出したことにより対立。
同二四年(1555)厳島において晴賢三五歳の軍勢二〇〇〇〇、元就五九歳の軍勢は四〇〇〇が対峙。元就は、戦国大名の争いなどに興味がなかった村上水軍を味方につけることに成功。厳島で陶氏を滅ぼした元就は周防、長門を手に入れました。
更に尼子氏を滅ぼし、山陽・山陰一〇ヵ国と豊前・伊予の一部を領しました。現存する元就の肖像は重要文化財。それにしても中央ではなく中国地方の覇者になることは、以下の理由により却ってマイナスと考えられます。
5.一族の朝鮮侵攻
早くから水軍との関わり深く、朝鮮半島に比較的近い地域・中国四国に勢力を拡大すること――それは小早川隆景と秀吉との関係性とは別に――秀吉の朝鮮侵攻に毛利氏が主力となって戦う、或いは支援しなければならない要因になっています。
すなわち滅亡した関東の覇者北条氏と全く逆を辿るように、隆景は碧蹄館の戦いで死闘を繰り広げ、小早川秀秋は慶長の役総大将、 毛利秀元は右軍総帥。
毛利氏に東に隣接する備前岡山の宇喜多秀家は文禄の役総大将でしたが、東海、東日本以北の戦国大大名前田利家しかり徳川家康は渡海せず、上杉景勝は戦闘に加わっていません。
毛利氏は、そのすぐ後にくる関ヶ原の戦いの前に他の大大名に比べて消耗していると見てよいでしょう。
毛利元就 相関図
毛利氏
妻・妙玖(みょうきゅう:吉川国経の娘)との子
その他
- 四男 穂田(ほいだ)元清、九男 秀包(ひでかね)ら。
その他
参考文献
- 小和田哲男監修『天下取り採点 戦国武将205人』(世界文化社 、2009年)
- 『戦国覇王』戦国大名篇(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)
- 今村実「毛利元就」 『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)208頁