大将
徳川家康
豊臣五大老時代は「内府(ないふ)」、息子の秀忠に将軍職を譲ってからは「大御所様」、死後は「東照大権現様」と呼ばれてる。
家紋
三つ葉葵(みつばあおい)
家老
行政及び軍事の最高責任者は以下二人。
西三河
石川数正
幼少の頃から家康に仕え、姉川や三方ヶ原の戦いに従軍。秀吉と家康と折衝役としても尽力。
東三河
酒井忠次
長篠の戦いでは別動隊として山を登り、武田軍の砦に奇襲するという重要な役割を担う。
文官
関ヶ原の戦いが終わった後の外交や内政に家康と共に尽力をつくし、徳川幕府の礎を築いた人々。
関東総奉行
本多正信
家康側近。金銭には清廉だが方広寺鐘銘事件、大久保忠隣失脚事件の陰の演出者と言われている。
京都所司代
板倉勝重
元僧侶。二条城の普請奉行、朝鮮通信使のおもてなしなど様々に活躍。
僧侶
南光坊天海
徳川三代(家康・秀忠・家光)から崇敬される陰の参謀にして、都市プランナー。
金地院崇伝
秀吉参謀の西笑承兌の紹介で家康に接近。幕府の外交事務を担当。天海とは仲がよくない。
儒学者
林羅山
徳川四天王
関ヶ原の戦いまで家康数々の戦で活躍した四人。
本多忠勝
三方ヶ原の戦い前哨戦で殿(しんがり)。五七度の合戦を経験、一度も傷を負ったことがない。
榊原康政
猛将にして達筆。小牧・長久手の戦いでは、先鋒隊として秀次軍を敗走させる。
酒井忠次
家老でもあり、他の四天王三人とは地位や実績の面で別格である。
井伊直政
年若く、新参メンバーで肩に力が入りすぎてか、家臣に対してパワハラ気味。
旗本
大久保彦左衛門
忠教(ただたか)。兄忠世とともに武功を立てる。徳川三代に仕えた天下の御意見番。
二代将軍
徳川秀忠
家康三男。家康没後は一代のうちに大名四一名を改易、独自の政治手腕を発揮する。
外様大名
譜代大名ではないが関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川勝利に大きく貢献した諸国の大名。
山内一豊
土佐(高知県)藩祖。信長、秀吉、家康に仕えた。妻は戦国最強女性の千代。ゆえに側室はいない。作れない。
黒田長政
福岡藩祖。冷たい風の中、捕えられた西軍の将・石田三成に自分の陣羽織を脱いで着せる意識高い武将。
伊達政宗
仙台藩祖。B型。大坂の陣では真田幸村を迎え討つ。徳川を倒すためか、家臣の支倉常長をローマに派遣する。
藤堂高虎
津(三重県)藩祖。文禄・慶長の役では、水軍将として救国の英雄・李舜臣相手に死闘を繰り広げた。徳川政権下では外様にして、政宗と並んで家康の側近のような立場となる。
家臣団の特徴
庄屋仕立て
徳川家康の家臣団は、信長や秀吉の家臣団より地味に見えるかと思います。
家康家臣団は毛利氏のような同胞ないし戦友的な団結によってではなく、鎌倉時代以来の古い伝統である武士的主従関係の保持に努めたことが反映されているからでしょう。
信長や秀吉の華々しい活躍の裏で家康は、三河松平郷の半農半兵の農村団体とも言うべき小さな武士団を熟成。やがて今川、武田の旧臣、江戸に移っては関東の武士をこの「庄屋仕立て」の武士団に落とし込み、政権を取ってからは「庄屋仕立て」のまま、全国の政治を行うようになりました。
精神的拠り所
信長は仏教を、秀吉はキリシタンを打倒することで政権を成立させていました。それでは何を持って精神的拠り所にするのか、秀吉はまじめに考えていませんでしたが、家康はまじめに取組んでヨーロッパの文化に目を向ける代わりに、中国の古い時代に目を向けました。
ズバリ、儒教を思想的な根拠づけとして用いはじめたのです。儒教は中国の封建制に結びついたものであり、家康の政治思想に適うものでした。秀吉が征服の相手として眺めた中国を家康は教師として迎えたのです。
学問をもって己の時代を始めた家康後期の側近は、天海や崇伝などの僧侶や、儒学者・林羅山などの教養人で固められてゆくのでした。
文献
和辻哲郎『日本倫理思想史(三)』(岩波書店、2011年) 参照