戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 戦国武将一覧

戦国武将解説

徳川家康家臣団解説

大将

徳川家康 徳川幕府家紋三つ葉葵素材02
徳川家康 徳川家の家紋
初代徳川幕府将軍。豊臣五大老時代は「内府」、息子の秀忠に将軍職を譲ってからは「大御所様」、死んだ後は「東照大権現様」と呼ばれてる。享年75。 三つ葉葵(みつばあおい)

家老

行政及び軍事の最高責任者は、家老の石川数正と酒井忠次のふたり。

石川数正 酒井忠次
石川数正 酒井忠次
西三河 東三河
家康には幼少の頃から仕えていたが、本能寺の変の後、何故か豊臣秀吉の所に出奔してしまう。徳川家臣団に大きな衝撃を与えた。そして数正は現在の国宝・松本城を築城した。享年61。 信長の娘と結婚した家康の長男・信康が、信長に謀反の疑いをかけらる。徳川安泰か、信康死罪か。家老として後者を選択した忠次。それが原因で、家康と忠次の間に深い溝ができた。享年70。

文官

関ヶ原の戦いが終わった後の外交、内政に家康と共に尽力をつくし、徳川幕府の礎を築いた人々。

本多正信 板倉勝重
本多正信 板倉勝重
関東総奉行 京都所司代
家康の側近で家康とは友達のように仲がいい。武人としてではなく行政面で活躍し、関ヶ原の戦いを経て、初期幕閣を担う。享年79。 30代半ばまで僧侶だったが、父と跡継ぎの弟が死去して還俗。家康の臣下となり、関ヶ原後に京都所司代に就任。豊臣氏や西国大名の動静を監視した。享年80。
南光坊天海 金地院 崇伝
南光坊 天海 金地院 崇伝
僧侶 僧侶
家康・秀忠・家光から崇敬される徳川幕府の陰の参謀。都市プランナーであり、廃墟であった江戸は、天台密教と陰陽道に基づく厳重な呪術によって守護された空間として構築した。享年108。 幕府の外交文書や法度など文章作成に従事。豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘に「国家安康」が「家」と「康」を分離し家康を呪詛しようとしていると難癖をつける役目を果たす。享年65。
林羅山
林羅山
儒学者
藤原惺窩の弟子。大変な努力家で、学問を極めて、徳川幕府の学問や儀礼に関係ある公務に就く。58歳の時でも一年に七百冊もの書物を閲読。享年75。

徳川四天王

関ヶ原の戦いまで、家康の数々のいくさで活躍した。徳川三傑として、本多忠勝、榊原康政、井伊直政。そして家老の酒井忠次を加え、徳川四天王と呼ばれる。

本多忠勝 榊原康政
本多忠勝 榊原康政
徳川の顔とも呼べる武将。50回以上の合戦を経験。そして一度も傷を負ったことはない。関ヶ原合戦では島津義弘を追いつめた。享年63。 忠勝と同い年。猛武の上、字も上手。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従い、上田城の真田昌幸幸村を攻めるが大敗。現地関ヶ原に遅刻してしまう。享年59。
井伊直政 酒井忠次
井伊直政 酒井忠次
井伊隊はいつも武具や旗を赤で統一。年若い、家臣団の新参メンバー。関ヶ原の戦いでは、東軍として、先陣をきった。関ヶ原で負った傷が原因で、41の若さで死去。 家老にして徳川四天王のひとりだが、関ヶ原の戦いの前に死去。享年70。

旗本

大久保彦左衛門
大久保彦左衛門
別名・忠教(ただたか)。兄・忠世とともに武功を立てた。家康・秀忠・家光の三代に仕え、古武士の意地を通した天下の御意見番。三河物語の作者でもある。享年80

二代将軍

徳川秀忠
徳川秀忠
家康の三男。奥さんのお江には頭が上がらない。温厚そうに見えて、家康没後は一代のうちに41名の大名を改易にしてしまうなど、独自の政治手腕を発揮した。享年54

外様大名

譜代大名ではないが、関ヶ原の戦いでは徳川につき、徳川勝利に大きく貢献した諸国の大名。

山内一豊 黒田長政
山内一豊 黒田長政
高知県。信長、秀吉、家康に仕えた。戦国最強の女性・千代を正室にもつ。ゆえに側室はいない。もしくは作れない。享年60。 福岡県。冷たい風の中、捕えられた西軍の将、石田三成に自分の陣羽織を脱いで着せてあげる思いやり?がある。享年56。
伊達政宗 藤堂高虎
伊達政宗 藤堂高虎
宮城県。B型。大坂の陣では真田幸村を迎え討つ。徳川を倒す為に?家臣の支倉常長をローマに派遣した。享年70。 愛媛県。名もなき家柄からのし上がっていく超実力派。頭も運動神経もいい。朝鮮の役海上戦での日本側の主役的存在。享年75。

徳川家康家臣団の特徴

庄屋仕立ての武士団

徳川家康徳川家康の家臣団は、何故か織田信長織田信長豊臣秀吉豊臣秀吉の家臣団より地味に見えるかと思います。

それは家臣のキャラクターが地味だからというよりも、家康が毛利氏のような同胞ないし戦友的な団結によってではなく、鎌倉時代以来の古い伝統である武士的主従関係の保持に努めたことが反映されているからでしょう。

信長や秀吉の華々しい活躍の裏で家康は、三河松平郷の半農半兵の農村団体とも言うべき小さな武士団を熟成し、やがて今川、武田の旧臣、江戸に移っては関東の武士をこの「庄屋仕立て」の武士団に落とし込み、政権を取ってからは「庄屋仕立て」のまま、全国の政治を行うようになったのでした。

何を持って精神的拠り所にするのか。

さて、信長は仏教を、秀吉はキリシタンを打倒することで政権を成り立たせていました。それでは何を持って精神的拠り所にするのか、秀吉はまじめに考えていませんでしたが、家康はまじめに取組んで、ヨーロッパの文化に目を向ける代わりに、中国の古い時代に目を向けました。

ズバリ、儒教を思想的な根拠づけとして用いはじめたのです。儒教は中国の封建制に結びついたものであり、家康の政治思想に適うものでした。秀吉が征服の相手として眺めた中国を家康は教師として迎えたのです。[註1]

学問をもって己の時代を始めた家康後期の側近は、天海や崇伝など教養の高い僧侶、儒学者・林羅山などで固められてゆくのでした。

相関図 関連リンク

朝鮮・明連合軍 文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍織田信長家臣団豊臣秀吉家臣団戦国武将一覧

関連トピック

補註

註1:和辻 哲郎『日本倫理思想史(三) (岩波文庫) 』(岩波書店、2011年) 参照