目次
プロフィール

土佐(高知県)藩祖。尾張国(愛知県)出身。幼名は辰之助。
特に豊臣政権時代は関白秀次の宿老として東海地方に重きをなす。
関ヶ原の戦い後は、全く知らない土地・土佐一国を与えられ、この国の人々との紛争の終結に全力を尽くす。それにしても妻の千代には頭が上がらない?
享年60(1545or1546-1605)。
詳細
1.秀次宿老

一豊は、尾張国黒田城主・山内盛豊の三男として尾張国に生まれました。母は梶原氏の女。
同国の岩倉城主・織田信安に仕えましたが、永禄二年七月に信安は信長に滅ぼされたので、一族とともに信長に属しました。
元亀元年(1570)姉川の戦いに功があり、天正元年に長浜城主・秀吉に属して歴戦。同一六年(1588)四〇代中盤で近江国(滋賀県)長浜に二万石を与えられました。
同一八年(1590)秀吉養子の秀次は、改易された
織田信雄の旧領・尾張と北伊勢五郡を譲り受けました。
これに伴い秀次宿老となった一豊は、遠江国(静岡県)掛川に六万石を与えられ、そのほか秀次宿老たちの堀尾吉晴 ・中村一氏・田中吉政たちも三河・遠江・駿河で知行を得ました。翌年秀次は秀吉から関白職を譲られ、聚楽第に入りました。
文禄元年(1592)四月に日本軍が朝鮮に侵攻。秀次は国内にあって継舟・次飛脚の制度を定め、兵糧米の確保や独自の軍事編成によって京畿の警護にあたり、秀次と宿老たちは朝鮮へ渡海することはありませんでした。
翌年八月、秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生すると、秀吉と秀次の間に亀裂が入りました。文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけて出家させ、切腹させられました。一豊はかえってまた遠江に八〇〇〇石加えられました。
2.掛川城



慶長年間に一豊が創建した天守閣を復元した木造天守閣外観、および現存の太鼓櫓。



左から現存の御殿外観、御殿内部 三の間、御書院の間。
2006年撮影。大河ドラマ功名が辻の年に行ってきました。東京駅から新幹線一本、思いのほかアクセスがよいです。本格的に木造で復元された天守閣としては日本初。掛川城は元々、今川氏重臣・朝比奈氏の中世城郭で山城の形態。一豊の時代に至って、大規模な改革が行われ近世城郭として変貌しました。
3.土佐藩祖
関ヶ原の戦いで一豊は徳川家康に属し、功により土佐(高知県)一国が与えられました。しかし全く知らない土地である土佐国の統治するのには大変な苦労がありました。元々は
長宗我部元親・盛親の土地だったため、土佐国の人々も全く知らない山内一豊という人物に反発。
一豊の晩年は、土佐国の人々との紛争の終結に全力を尽くすことになりました。慶長六年(1601)三月、一豊は桂浜で相撲を興行し、長宗我部氏の遺臣らを捕らえて磔に処しました。一方、一般民衆には安堵の保障を与える掟を出しました。
一豊は勇武の人でありながら、謹直で謙虚であったと言われて、妻は千代だけ、生涯側室を置きませんでした。享年六一。一豊の築いた高知城は今も変わらず現存しています。
鰹のタタキ
食中毒を恐れてとのことだったらしいですが、一豊は土佐入国後、鰹の刺身を禁じました。領民は表面を炙って霧、焼き魚として食しました。これが鰹のタタキの起源だそうです。
幕末の山内容堂
幕末、一五代土佐藩主の山内容堂(ようどう,豊信)は、一橋慶喜を将軍に推す一橋派。かくして容堂は、井伊直政の子を藩祖とする一三代彦根藩主にして幕府大老・直弼による安政の大獄の処罰対象にもなりました。地味ながら戦国時代も幕末も、あながち無視できないのが土佐藩ではないでしょうか。
山内一豊 相関図
山内氏
- 父:盛豊、母:法秀尼(ほうしゅうに)
- 弟:康豊-忠義(甥:土佐高知藩二代)
- 妻:千代
主君
その他
DVD
「NHK大河ドラマ 功名が辻」は、戦国未満開設年(2006)放送。千代・一豊が主人公ということもあり、地味すぎて当時余り期待せずに視聴。然しながら一豊が信長・秀吉・家康に仕えたこともあってか、意外に面白かったです。個人的に濃姫役の和久井映見と光秀役の坂東三津五郎がカッコよくて、印象に残っています。
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「山内一豊」259頁
- 竹村篤「山内一豊」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)125頁
- 掛川市教育委員会 監修「掛川城」『図説・日本名城集-決定版(歴史群像シリーズ)』(学習研究社、2001年)56-57頁
- 高柳光壽「山内一豊」『日本人名大事典6』(平凡社、1979年)382-383頁