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戦国人物解説

北条氏政(ほうじょう-うじまさ)弟たちと守り抜く関東百年王国

目次

プロフィール詳細:1.一六歳で政略結婚 2.第一次・二次 国府台の戦い

3.黄梅院との別れ 4.三増峠の戦い 5.御館の乱 6.神流川の戦い

7.沼田の真田領 8.小田原合戦相関図参考文献関連記事

プロフィール

北条氏政
Ujimasa Hojyo

小田原北条氏第四代。幼名は松千代丸。

父の氏康長男・新九郎は夭逝(ようせつ)した為、 次男氏政が嫡子となる。

武田信玄今川義元とによる甲相駿三国同盟により妻として信玄の娘を迎える。しかし義元死去により甲相の関係が崩れ、愛していた妻が里に帰ることに。

織田信長によって武田氏が滅亡すると、勝頼の旧領・上野(群馬県)は滝川一益に与えられる。信長が死去すると、一益を追い出すべく大軍をもって攻める。

明智光秀を討ち、四国、九州と制圧した豊臣秀吉の次の攻撃目標は関東。これに対し氏政と弟氏照は断固立ち向かう姿勢を見せる――

享年53(15381590)。同い年:前田利家本多正信鍋島直茂金誠一

詳細

1.一六歳で政略結婚

北条氏康_関係地図
北条氏康_関係地図

北条氏政氏政北条氏康氏康の次男。天文二〇年(1551)氏政一四歳の時に兄・新九郎がに死去し、嫡子となりました。

同二三年(1554)今川義元今川義元武田信玄武田信玄と氏康により甲相駿三国同盟が結ばれた結果、氏政一六歳に信玄の娘(黄梅院/おうばいいん)一二歳が嫁いできました。政略結婚でもあったにも関わらず氏政は妻の黄梅院を大変愛し、大切にしました。

永禄二年(1559)氏政二二歳は氏康四五歳から家督を継ぎましたが、実権はいまだ氏康が有していました。また弟に氏照(八王子城主)、氏邦(鉢形城主)はじめ氏規、氏忠、氏光、氏秀(景虎)がいて他家に見られるような争いもなく、兄弟たちの結束は固いのでした。

2.第一次・二次 国府台の戦い

天文七年(1538)一〇月、古河公方・足利義明は、房総(千葉県南部)の里見義堯(よしたか)と合して武蔵に侵攻。

祖父氏綱と父氏康はこれを下総(千葉県北部)国府台(こうのだい)において撃退し、義明を討ち取りました(第一次国府台の戦い)。里見義堯は北条氏と対抗するため、上杉謙信上杉謙信と同盟しました。

一方、河越合戦において氏康とその家臣綱成に敗れた関東管領・上杉憲政は、謙信を頼って越後に亡命。永禄三年(1560)謙信は憲政伴い、一一万三〇〇〇余騎が関東に進撃し、翌年三月に小田原城を包囲しました。

これに対し北条氏は籠城策に徹し、謙信は後方をおびやかされ、六月末に春日山城に帰陣。

謙信の小田原攻めに参陣した里見氏は、関東での反北条勢力の中心となっていました。永禄七年(1564)正月七日、氏康・氏政父子は下総と武蔵の境、江戸川を挟んで里見義弘(義堯の子)と対陣。当時、北関東で転戦中の謙信が参陣しないうちに決着をつけるためでした。北条軍の奇襲が成功して里見軍は敗走しました。

3.黄梅院との別れ

永禄三年(1560)五月、織田信長織田信長は今川義元を桶狭間に破り、義元は戦死しました。三国同盟が結ばれていた甲相駿の三国でしたが、同一一年(1568)一二月に信玄が駿河へ侵攻。

今川氏真は救援を氏康に求め、氏政は小田原を出陣。氏真は朝比奈泰朝(やすとも)守る掛川城に逃れました。この時、氏真の妻である氏康の娘(蔵春院)は徒歩で敗走したといい、これを聞いた氏康は、氏政の妻である信玄の娘(黄梅院)を甲斐に送り返しました。

氏政の救援間に合わず、翌一二年(1569)正月、駿河へ入り、薩埵(さつた)山に陣を構えました。信玄は駿府を出てこれを迎え撃つため、先陣として武田信豊を派遣。両軍は対陣したまま、氏康は上杉謙信と和睦交渉を開始、氏真も謙信に救援を求めました。

同年四月、信玄が甲府に撤兵すると、氏政三二歳はこれを追撃して局地的な勝利をおさめました。また氏政は長男国王丸(氏直)を氏真の養子とし、形式的に駿遠の今川領を継承。同閏五月には越相同盟が成立し、氏政の弟・三郎氏秀が越後へ赴きました。

同年、甲斐に戻った妻の黄梅院は二七歳の若さで死去すると、氏政は甲相同盟が復活したのちに、箱根早雲寺に黄梅院の塔頭を建てて分骨を葬りました。

4.三増峠の戦い

越相同盟に逆ギレした信玄は同年一〇月、信玄は厚木、平塚を経て、小田原城に肉薄。近辺に放火して挑発。しかし氏康・氏政父子は籠城したままでした。武田軍は長期戦の不利を考えて小田原から退却。

北条軍の追撃厳しく、氏政弟の氏照・氏邦らが相模三増峠(みませとうげ)で帰路を急ぐ武田軍に一撃を加えました。以後北条と武田の戦いは氏康の死まで激しく続きました。

元亀元年(1570)三月に謙信から氏康・氏政に書状が届き、氏秀養子の盟約のことなどが交わされました。また謙信は氏秀に自らの初名・景虎を与え、景虎は長尾政景の娘を妻に迎えました。

この間も武田軍と北条軍は沼津や伊豆などで対戦するも勝敗は決しないまま。信玄は再度、信濃から関東へ出馬し、秩父郡へ進軍。それまで氏康の要請に応えてこなった謙信が一〇月、ようやく上野(群馬県)へ出陣。信玄はこれを見て、武蔵から兵を引きました。

翌元亀二年(1571)一〇月氏康五三歳が死去し、越相同盟を破棄して甲相同盟が成立しましたが、同四年(1573)四月に信玄が死去しました。

5.御館の乱

同六年(1578)三月謙信が家督を決めないまま死去すると、養子の景虎二六歳と上杉景勝景勝二四歳が争いました。景勝の先制攻撃が功を奏し、景勝が春日山城を占拠し、景虎は府内の御館(おたて)に逃れました。

同年九月、氏政が景虎救援のため、弟氏照を越後に派遣。武田勝頼武田勝頼の妹(菊姫)が景勝に嫁ぎ、これが氏政に伝わると即刻甲相同盟を破棄。その後は景勝が徐々に軍事的優勢となり、景虎は小田原へ脱出を試みましたが失敗して妻と共に自害しました。

氏政は鉢形城の弟氏邦らを派遣する予定でしたが、雪のため実現せず、間に合いませんでした。

6.神流川の戦い

御館の乱を契機に、天正七年(1579)九月氏政は勝頼と黄瀬(きせ)川にて対陣。 翌年三月、氏直一八歳に家督を譲りました。

天正一〇年(1582)二月に信長は、勝頼討伐の大軍を発し、先鋒として織田信忠信忠以下滝川一益らが甲州へ進攻。同年三月に勝頼が自害すると、功により一益には勝頼旧領の上野(こうずけ)国(群馬県)が与えられ、しかも関東管領職に任じられました。これには氏政・氏直父子も見過ごすわけにはいきません。

同年六月二日に信長が本能寺で討たれると、一益を追い出すべく、氏直は同月一六日、大軍をもって出陣。一八日、武蔵・上野の国境にあたる本庄原(埼玉県本庄市)や金窪城(同県上里町)で合戦が行われ、一益は北条軍を追い散らしました。

同月一九日、神流(かんな)川の河原で滝川軍一万八〇〇〇と北条軍五万五〇〇〇が本格的に激突。北条軍は三七〇〇余の首級をあげ、一益は上野厩橋城を捨てて、本領の伊勢長島へ帰りました。

7.沼田の真田領

一益を追い出した氏直は、上野から信濃へ進攻。この状勢を見て信濃上田城の真田昌幸真田昌幸は、北条方に与(くみ)し、また徳川家康徳川家康は無主の国となった甲斐侵攻を企んでいました。かくして同年八月、家康軍と北条軍が甲斐若神子(わかみこ)で対陣。

この対陣は長引き、この間、昌幸は豊臣秀吉秀吉のさそいにのって、北条方から家康方になり、氏直軍が昌幸を攻める状況になりました。また家康が武田の旧臣を配下に置き、北条氏が不利になってゆく中で和睦が成立。

氏直は家康の次女・督姫(とくひめ)を妻とし、家康と同盟を結びました。かくして氏直は下野や常陸方面へ侵攻し、同年一二年(1584)四月、家康は秀吉と小牧・長久手で天下を争いましたが敗れました。

秀吉は関東惣無事令を出して私戦を禁止。氏政はじめ弟の氏照や氏邦はこれを無視して上野平定と周辺への領土拡大を押しすすめました。また上野沼田の真田領は秀吉によって、三分の二を北条領、三分の一は真田領として安堵されました。

沼田北条領を預かっていた氏邦は、その支配を家臣の猪俣邦憲(いのまた-くにのり)に命じました。しかし猪俣が真田領へ侵攻しまい、これは九州を制圧し残るは関東制圧であった秀吉にとって渡りに船。

8.小田原合戦

家康に先鋒を命じ、天正一八年三月一日に秀吉の軍勢が小田原に向けて京を出発。一方、秀吉の再三の要求に根負けした朝鮮王朝は通信使の派遣を決定して、同月、金誠一ら一行が漢城(ソウル)を発ちました。

上田城の真田昌幸も合流して三万五〇〇〇余りの秀吉の軍勢が北条領に侵入。小田原城には氏政・氏直ほか、氏照ほか氏房(氏政四男)氏舜(綱成孫)ら一門、宿老筆頭・松田憲秀ら五万六〇〇〇余が籠城。

四月、上野松井田城の大道寺政繁が数度撃退するも陥落し、政繁が案内役として敵軍に加わりました。氏勝(氏舜弟)が守る相模玉縄城が開城。次々に支城が陥落しましたが、武蔵忍城は石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継・長束正家らに攻められるも、持ちこたえました。

七月五日、氏直が自分の命と引き換えに降伏。氏直は家康の娘婿などを理由に除名されましたが、秀吉との一戦を主張した氏政・氏照、大道寺政繁と豊臣方に内通した松田憲秀の四人が切腹を命じられました。九日、氏政・氏照は氏規(氏康五男)の介錯で切腹しました。

二一日、通信使は小田原合戦のため秀吉不在の京に到着。彼らが秀吉に謁見したのは一一月となり、氏政は北条氏百年の栄華に傷をつけることなく、その歴史に潔く幕を下ろす役目を見事に果たしたのでした。

北条氏政 相関図

一門

父:北条氏康北条氏康

頭が上がらない人:北条綱成

ライバル

神流川の戦い:滝川一益

小田原合戦:豊臣秀吉豊臣秀吉佐竹義宣堀尾吉晴など

滅びた家の当主

今川義元武田勝頼浅井長政など

  

参考文献

関連トピック

北条氏政:肖像素材イラスト