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戦国人物解説

豊臣秀長(とよとみ-ひでなが)影の太閤にして兄秀吉の朝鮮出兵歯止め役

目次

プロフィール詳細相関図参考文献関連記事

プロフィール

豊臣秀長
Hidenaga Toyotomi

秀吉の4つ下の異父弟。通称・小一郎(こいちろう)。大和大納言。

人望が高く、いくさ上手であり、その実力と才覚で家臣団を統括。兄を天下人に導いたが、天下平定の半年後に死去。

また朝鮮出兵には反対で、最大の歯止め役になっていたため、秀長死後から朝鮮の役が現実化していく――

享年52(1537-1591)。同い年は元均。秀吉より三つ年下。

詳細

影の太閤

豊臣秀長系図
図:豊臣秀長系図

豊臣秀長秀長は、通称・小一郎(こいちろう)と言い、豊臣秀吉豊臣秀吉の4つ下の同母弟。秀吉をよく補佐し、初期秀吉の側近中の側近であったため「影の太閤」とも呼ばれていました。

とはいうものの、若い頃の秀長は織田信長織田信長の家臣として秀吉とは別に軍事行動をとっていました。秀吉の中国攻め以降、秀吉の配下に入りました。

信長が明智光秀明智光秀によって本能寺で討たれたのが秀長四二才の時。以降、病死するまでの一〇年、兄秀吉の天下取りに全力を注ぎました。

山崎での明智光秀との戦い、賤ヶ岳での柴田勝家柴田勝家との戦い、小牧・長久手での織田信忠織田信忠徳川家康徳川家康連合軍との戦い、いずれの戦いでも秀長は活躍。

続く四国征伐での長宗我部元親長宗我部元親との戦いでは総大将となり、のちに大和郡山城主として紀伊・和泉・大和を領しました。九州征伐での島津義弘島津氏との戦いでも秀長は指揮官として奮闘、秀吉の天下統一は目前に迫りました。

秀長は大納言に叙任され、太政大臣となった兄秀吉は豊臣の姓を賜りました。しかし小田原の戦いで北条氏政北条氏政を討って天下を平定した半年後、病のため秀長はこの世を去りました。享年五二。

秀長は私欲がなく、いくさにあっては秀吉の名を立て、危険を顧みず、温厚な性格で経済感覚も優れていました。そんな秀長の忠告を秀吉は素直に聴き、信頼を寄せてました。

朝鮮出兵には反対で、秀長が最大の歯止め役となっていました。かくして秀長死後、秀長派の千利休千利休も後を追うように死去すると、朝鮮出兵が現実化していくのでした。

豊臣秀長 相関図

豊臣家

兄で主君:豊臣秀吉豊臣秀吉

甥:豊臣秀次秀次/同派閥:千利休千利休

重臣

藤堂高虎藤堂高虎

ライバル

長宗我部元親長宗我部元親島津義弘島津義弘

参考文献

関連記事

豊臣秀長:肖像素材イラスト