戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 人名一覧

戦国人物解説

豊臣秀長(とよとみ-ひでなが)弟なくして成立しない秀吉政権

目次

プロフィール詳細:1.兄秀吉の帰村 2.四国、九州攻め

3.病気の常態-大織冠遷座 4.最晩年と死後の政権

相関図参考文献関連記事

プロフィール

豊臣秀長
Hidenaga Toyotomi

秀吉唯一の弟。通称・小一郎(こいちろう)。大和大納言。

(てい)の見本のような弟(おとうと)。

則ち兄秀吉の言いなりではなく、主体的に行動しながらこれを補佐。

その過程で秀吉家臣団の肝心かなめとなるも、次第に病気が常態化。天下取り終盤の小田原の戦いでは病床にあり、兄は弟不在で北条氏を滅ぼした。

しかし天下取りなど偉大なる兄にとって余興の類。朝鮮出兵が現実味を帯び、弟の生死が豊臣の、はたまた日本の命運を分ける――?!

享年52(1540-1591)。同い年は元均。秀吉より3つ年下。

詳細

1.兄秀吉の帰村

豊臣秀長系図
図1:豊臣秀長系図

豊臣秀長秀長は、通称・小一郎(こいちろう)と言い、豊臣秀吉秀吉の三つ下の同母弟

兄が早くから家を飛び出し放浪生活をしている間、尾張の中村郷で母や姉を助け、野良仕事に精を出していました。

ある日、郷に帰ってきた兄秀吉は、今では織田信長織田信長に仕え、足軽組頭になっていると言います。自分のもとに来ないかと誘われました[文献1]。

しかし史料に初めて現れる秀長は、信長家臣として秀吉とは別に軍事行動をとっています。秀吉の中国攻め以降、その麾下(きか)に入りました。

天正一〇年(1582)秀長四二才の時、信長が明智光秀明智光秀によって本能寺で討たれ、秀吉の天下取りがスタート。山崎での光秀との戦い、賤ヶ岳での柴田勝家柴田勝家との戦い、小牧・長久手での織田信忠織田信忠徳川家康徳川家康連合軍との戦いに秀長は活躍しました。

2.四国、九州攻め

秀長が初めて兄に反抗したのは、長宗我部元親長宗我部元親を討つため、総大将として八万の大軍を率いて四国へ渡ったとき。

進撃が思わしくないと聞いた秀吉は、自ら四国へ行こうとしました。それを知った秀長は「秀吉がきたら、秀長の武力不足を示すことになり、秀長の恥にもなる。四国へくるのはやめてくれ。」

元親を降伏させ、凱旋した秀長は天正一三年(1585)大和(奈良県)郡山(こおりやま)城主として、紀伊・和泉・大和を領しました。紀伊の総国検知を行い、大和の寺社に制札を下し、東大寺大仏殿復興に援助を与えるなど領国支配に尽力。

天正一五年(1587)九州征伐のおり、秀長は真っ先に和議をすすめ、島津家久もそれに応じました。この和議の件で秀吉は秀長の独断専行と叱っていますが、秀吉自身はじめから和議を望んでいました。

3.病気の常態-大織冠遷座

大織冠(木像)
図2:大織冠(木像)

同年、秀長四八歳は大納言に叙任。秀長の病気が常態となった翌天正一六年(1588)四月、大織冠(たいしょっかん,たいしょくかん)が居城の郡山城の城下へ遷座(せんざ)=移されました。

一般に大織冠とは、藤原鎌足が死を前にして与えられた当時の最高位階。他に授けられた例がないので、鎌足の称となりました。

ここでいう大織冠とは、大和国・多武峰寺(とおのみねでら/現 談山神社)にまつられた藤原鎌足の「木像」のこと。中世では大織冠破裂といって、凶事や異変の際にはその予兆として破裂(亀裂、欠損)することでも知られた霊宝です。

その大織冠が郡山へ遷座となり、二年後の天正一八年一〇月に「はや今暁(こんぎょう)秀長は死去」(『多門院日記』)といわれるほど病状に秀長が陥ったとき、「当病本復(ほんぷく)においては、大織冠先々(さきざき)のごとく、御帰山(ごきざん)たるべし」(『談山神社文書』)

則ち豊臣政権が、秀長病気平癒と引き換えに大織冠を帰座(きざ)=もとの座所に返そうと多武峰寺に伝えました。逆にこれは、天正一六年の郡山遷座の目的が、大織冠の霊力によって病気平癒を期待した可能性が考えられます。

4.最晩年と死後の政権

天正一七年(1589)五月、秀吉に待望の子・鶴松が誕生。翌同一八年正月、妹の旭姫(家康の正室)が死去(享年四八)。

北条氏政小田原の戦いでは病床にあった秀長。秀吉が北条氏を討って同年七月、天下を平定した半年後の天正一九年(1591)正月二二日、秀長は病のためこの世を去りました。享年五二。

秀吉は弟の死を知ったとき、片腕を失ったと号泣[文献2]。――したとは思いますが、本人にしてもどこまで本気だったであろうか。何故なら、信長先輩の如く自分に従わない人間はもちろん、秀吉はそうでもない親類までも排除。

秀長は秀吉の朝鮮出兵には反対の立場で、最大の歯止め役になっていました。かくして秀長死後、秀長派の千利休千利休も後を追うように死去すると、朝鮮出兵が現実化していくのでした。

妻のお藤(光秀尼)は、秀長の参詣先で見染められ、大和郡山城に迎えられました。養子の秀保が死去すると、城を出て興福院で再び出家。秀長・秀保の菩提を弔いました。享年七一

豊臣秀長 相関図

豊臣氏

  • 父:弥右衛門、母:大政所
  • 姉:とも、兄:秀吉、妹:旭姫徳川家康室)
  • 妻:お藤(光秀尼)
  • 娘:大善院(毛利秀元室)
  • 養子:秀保(ひでやす:姉ともの子で、秀次の弟)

秀吉軍団

参考文献

関連記事

豊臣秀長:肖像素材イラスト