プロフィール

秀吉の4つ下の異父弟。通称・小一郎(こいちろう)。大和大納言。
人望が高く、いくさ上手であり、その実力と才覚で家臣団を統括。兄を天下人に導いたが、天下平定の半年後に死去。
また朝鮮出兵には反対で、最大の歯止め役になっていたため、秀長死後から朝鮮の役が現実化していく――
詳細
影の太閤

秀長は、通称・小一郎(こいちろう)と言い、
豊臣秀吉の4つ下の同母弟。秀吉をよく補佐し、初期秀吉の側近中の側近であったため「影の太閤」とも呼ばれていました。
とはいうものの、若い頃の秀長は織田信長の家臣として秀吉とは別に軍事行動をとっていました。秀吉の中国攻め以降、秀吉の配下に入りました。
信長が明智光秀によって本能寺で討たれたのが秀長四二才の時。以降、病死するまでの一〇年、兄秀吉の天下取りに力を注ぎました。
山崎での光秀との戦い、賤ヶ岳での柴田勝家との戦い、小牧・長久手での
織田信忠・
徳川家康連合軍との戦いに秀長は活躍。
続く四国征伐での長宗我部元親との戦いでは総大将となり、のちに大和郡山城主として紀伊・和泉・大和を領しました。九州征伐での
島津氏との戦いでも秀長は指揮官として奮闘、秀吉の天下統一は目前に迫りました。
秀長は大納言に叙任され、太政大臣となった兄秀吉は豊臣の姓を賜りました。しかし秀吉が小田原の戦いで北条氏政を討って天下を平定した半年後、秀長は天正一九年正月二二日に病のためこの世を去りました。享年五二。
秀長は私欲がなく、いくさにあっては秀吉の名を立て、危険を顧みず、温厚な性格で経済感覚も優れていました。そんな秀長の忠告を秀吉は素直に聴き、信頼を寄せてました。
秀吉の朝鮮出兵には反対で、秀長が最大の歯止め役となっていました。かくして秀長死後、秀長派の千利休も後を追うように死去すると、朝鮮出兵が現実化していくのでした。
豊臣秀長 相関図
豊臣家
ライバル
参考文献
- 三鬼清一郎「羽柴秀長」『国史大辞典11』(吉川弘文館1989年)535頁
- 歴史雑学研究会 編さん『図解!名将を支えた軍師たち』(綜合図書、2007)