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戦国人物解説

豊臣秀長(とよとみ-ひでなが)弟なくして成立しない秀吉政権

目次

プロフィール詳細相関図参考文献関連記事

プロフィール

豊臣秀長
Hidenaga Toyotomi

秀吉唯一の弟。通称・小一郎(こいちろう)。大和大納言。

(てい)の見本のような弟(おとうと)。

則ち兄秀吉の言いなりではなく、主体的に行動しながらこれを補佐。

その過程で自身は秀吉家臣団の肝心かなめとなるも、天下取りへのクライマックス・小田原の戦いでは病床にあり、兄は弟不在で北条氏を滅ぼした。

しかし天下取りなど偉大なる兄にとって余興の類。朝鮮出兵が現実味を帯び、弟の生死が豊臣の、はたまた日本の命運を分ける――?!

享年52(1537-1591)。同い年は元均。秀吉より3つ年下。

詳細

1.兄秀吉、出世して帰村

豊臣秀長系図
図:豊臣秀長系図

豊臣秀長秀長は、通称・小一郎(こいちろう)と言い、豊臣秀吉秀吉の三つ下の同母弟

兄が早くから家を飛び出し放浪生活をしている間、尾張の中村郷で母や姉を助け、野良仕事に精を出していました。

ある日、兄が郷に帰ってきた兄は、今では織田信長織田信長に仕え、足軽組頭になっていると言います。自分のもとに来ないかと誘われました[文献1]。

しかし史料に初めて現れる秀長は、信長家臣として秀吉とは別に軍事行動をとっています。秀吉の中国攻め以降、その麾下(きか)に入りました。

天正一〇年(1582)信長が明智光秀明智光秀によって本能寺で討たれたのが秀長四二才の時。以降、病死するまでの一〇年、兄秀吉の天下取りに力を注ぎました。

山崎での光秀との戦い、賤ヶ岳での柴田勝家柴田勝家との戦い、小牧・長久手での織田信忠織田信忠徳川家康徳川家康連合軍との戦いに秀長は活躍しました。

2.主体的な弟

秀長が初めて兄に反抗したのは、長宗我部元親長宗我部元親を討つため、総大将として八万の大軍を率いて四国へ渡ったとき。

進撃が思わしくないと聞いた秀吉は、自ら四国へ行こうとしました。それを知った秀長は「秀吉がきたら、秀長の武力不足を示すことになり、秀長の恥にもなる。四国へくるのはやめてくれ。」

元親を降伏させ、凱旋した秀長はのちに大和郡山城主として紀伊・和泉・大和を領しました。

九州征伐のおり、秀長は真っ先に和議をすすめ、島津家久もそれに応じました。この和議の件で秀吉は秀長の独断専行と叱っていますが、秀吉自身はじめから和議を望んでいました。

3.晩年

秀長四八歳は大納言に叙任され、太政大臣となった兄秀吉は豊臣の姓を賜りました。

北条氏政小田原の戦いでは病床にあった秀長。秀吉が北条氏を討って、天下を平定した半年後の天正一九年(1591)正月二二日に病のためこの世を去りました。享年五二。

秀吉は弟の死を知ったとき、片腕を失ったと号泣しました。秀長は私欲がなく、いくさにあっては秀吉の名を立て、危険を顧みず、温厚な性格で経済感覚も優れていました。

また、秀吉の朝鮮出兵には反対で、秀長が最大の歯止め役となっていました。かくして秀長死後、秀長派の千利休千利休も後を追うように死去すると、朝鮮出兵が現実化していくのでした。

妻のお藤(光秀尼)は、秀長の参詣先で見染められ、大和郡山城に迎えられました。養子の秀保が死去すると、城を出て興福院で再び出家。秀長・秀保の菩提を弔いました。享年七一

豊臣秀長 相関図

豊臣氏

  • 父:弥右衛門、母:大政所
  • 姉:とも、兄:秀吉、妹:旭姫
  • 妻:お藤(光秀尼)
  • 娘:大善院
  • 養子:秀保(ひでやす:姉ともの子で、秀次の弟)

秀吉軍団

参考文献

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