刀狩りとは
刀狩りとは、農民や僧侶の保有する武器を没収した、豊臣政権の政策の一つです。
豊臣秀吉・刀狩令
条文
第一条
一、諸国百姓の刀・脇差(短い刀)・弓・鑓(やり)・鉄砲そのほか武具のだぐいの所持の事は、堅(かたく)く禁ずる。
その子細は、いらない道具をたくわえ、年貢・物納(所当)を難渋せしめ、万一、一揆を企(くわだ)て、大名の家臣(給人)に対し非儀(ひぎ)の働きをなす族(やから)に対しては勿論御成敗あるべし。
然れば、そのような所の田畠は不作となり、領地(知行)が無駄になるので、その国主・給人・代官として、右武具は悉(ことごとく)く取りあつめ進上致すべき事。
第二条
一、右取り上げた置いた刀・脇差は、無駄にさせるべきことでないので、今度大仏御建立の釘・かすがいとして寄進されるべし。然れば、現世のことは申すに及ばず来世までも百姓は助かることである。
第三条
一、百姓は農具さえ持てば、耕作に専(もっぱ)らに仕え、子々孫々まで長久である。百姓へ御憐(あわ)れみをもって、このように命じられた。誠に国土安全万民快楽(けらく)の基礎なり。右道具必ず取り集め、進上あるべきである。
天正十六年七月八日(秀吉朱印)/小早川家文書 原文[文献1]から当サイトによる直訳
解説
秀吉は、天正一六年(1588)七月に海賊停止令と並んで刀狩令を発しました。その内容は上記のとおり三条からなり、諸大名内において村ごとに没収作業が行われました。刀狩令第二条の建立する大仏殿とは、京都・東山の方広寺のことです。
前史
刀狩りを全国で実施したのは秀吉が初めてですが、刀狩りには先例があります。
鎌倉幕府
仁治三年(1242)鎌倉幕府は鎌倉における僧徒らの帯刀を禁じ、大仏に寄進すると述べ僧侶の武装を禁止しました。
柴田勝家
天正四年(1576)信長の家臣である柴田勝家は、越前一向一揆鎮圧後「刀さらへ」として、没収した武具で農具や船橋の鎖を作ったと伝えられています。
羽柴秀吉
前述の秀吉刀狩令(天正一六)の三年前、同一三年(1585)に紀伊国・雑賀(さいか)一揆の制圧に際し羽柴秀吉は「百姓が弓矢・槍・鉄砲・腰刀を持つことを禁止、百姓は鋤(すき)鍬(くわ)など農具を大切にして、耕作だけに専念せよ」と命じました。
何故「刀」なのか
太閤検地との関係
百姓の持つ武具が刀狩令(天正一六)第一条「一揆や反抗の基」なら、刀より殺傷能力の高い鉄砲を取り上げるべきです。秀吉がそうしなかったのは何故でしょうか。
刀狩りと同時期に行われたのが太閤検地。国によってバラバラだった検地を全国規模で統一した太閤検地は、石田三成の発明ともされています。太閤検地は朝鮮出兵に際しては石高によって組織し、兵糧米と軍役数の確保することを目的がありました。
一方戦国時代は、武士と農民の間に位置する土豪・地侍が君臨。藤木久志氏[文献2]によれば、戦国の世の人にとって種々の武器を所有することは、自分の属する社会や共同体から自力で防衛し、自立した村の成員であることの証明でした。
則ち彼らから刀をはく奪することは、彼らの自立の徴(しるし)と名誉を奪うことを意味します。然しながら太閤検地はこれら階層を否定し、彼らに百姓になるか、保有する田畑を捨て城下町に移るか二者択一の道を選ばせました。天正一八年(1590)の奥州仕置は、検地・刀狩をともなうものであったと考えまれます。
太閤検地は豊臣の食糧生産力拡大だけでなく、刀狩りとセットで身分秩序の構築の目的もあったのでした。