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刀狩りとは 豊臣秀吉刀狩令と太閤検地との関係

目次

1.刀狩りとは 2.豊臣秀吉・刀狩令 3.前史

4.何故「刀」なのか 太閤検地との関係

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刀狩りとは

刀

刀狩りとは、農民や僧侶の保有する武器を没収した、豊臣政権の政策の一つです。

豊臣秀吉・刀狩令

天正一六年(1588)条文

第一条:百姓が刀・脇差・弓・槍・鉄砲、その他の武具を持つことをかたく禁止する。これらは一揆や反抗の基になるから、領主の責任で没収せよ。

第二条:取り上げた武具は、建立する大仏殿の釘・かすがいに寄進するので、百姓はこの世のみならず、来世まで助かるであろう。

第三条:百姓は農具を持ち、耕作に専念すれば、子々孫々まで長久である[註1]。

解説

豊臣秀吉豊臣秀吉の刀狩令(天正一六年)は上記三条より成り立っています。第二条の建立する大仏殿とは、京都・東山の方広寺のことで、文禄四年(1595)年実際に大仏は建立されましたが、その一年後、地震で大仏が大破しました。

前史

刀狩りを全国で実施したのは秀吉が初めてですが、刀狩りには先例があります。

鎌倉幕府

仁治三年(1242)、鎌倉幕府は鎌倉における僧徒らの帯刀を禁じ、大仏に寄進すると述べ僧侶の武装を禁止しました。

柴田勝家

天正四年(1576)、織田信長織田信長の家臣である柴田勝家柴田勝家は、越前で一向一揆を鎮圧後「刀さらへ」として、没収した武具で農具や船橋の鎖を作ったと伝えられています。

羽柴秀吉

前述の秀吉の刀狩り令(天正一六年)の三年前、天正一三年(1585)に紀伊国・雑賀(さいか)一揆の制圧に際し羽柴秀吉は、「百姓が弓矢・槍・鉄砲・腰刀を持つことを禁止、百姓は鋤(すき)・鍬(くわ)など農具を大切にして、耕作だけに専念せよ」と命じました[註2]。

何故「刀」なのか

太閤検地との関係

百姓の持つ武具が、刀狩令(天正一六年)第一条「一揆や反抗の基」というなら、刀より殺傷能力の高い鉄砲を取り上げるべきです。しかし秀吉がそうしなかったのは何故でしょうか?

刀狩りと同時期に行われたのが太閤検地。国によってバラバラだった検地を全国規模で統一した太閤検地は、石田三成石田三成の発明ともされています。太閤検地は、朝鮮出兵に際しては石高によって組織し、兵糧米と軍役数の確保することを目的がありました。

一方戦国時代は武士と農民の間に位置する土豪・地侍が君臨していました。

藤木久志氏[註3]によれば、戦国の世の人にとって種々の武器を所有することは、自分の属する社会や共同体から自力で防衛し、自立した村の成員であることの証明でした。彼らから刀をはく奪することは、彼らの自立の表彰と名誉を奪うことを意味していました。

然しながら太閤検地はこれら階層を否定し、彼らに百姓になるか、保有する田畑を捨て城下町に移るか二者択一の道を選ばせました。太閤検地は豊臣の食糧生産力拡大だけでなく、刀狩りとセットで身分秩序の構築の目的もあったのでした。

  

補註

註1:永原慶二編『日本歴史大事典』(小学館、2000年)

註2:前掲書

註3:藤木久志 『刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965)) 』(岩波書店 、2005年)

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