解説
文禄・慶長の役では、主に九州の大名を中心とした西国の大名が動員されました。よって東海・北陸地方の諸大名が渡海したとしても後方部隊となります。
秀次軍団
さて、このころ東海地方を治めていいたのは、豊臣秀吉の甥で養子の秀次。尾張と北伊勢五郡は、改易された織田信雄(のぶかつ)の旧領で天正一八年(1590)に秀次が譲り受けました。
これに伴い、秀次宿老の山内一豊・堀尾吉晴 ・中村一氏・田中吉政たちは、三河・遠江・駿河で知行を得ました。翌年秀次は秀吉から関白職を譲られ、聚楽第に入りました。
文禄元年(1592)四月に日本軍が朝鮮に侵攻すると、秀次は国内にあって継舟・次飛脚の制度を定め、兵糧米の確保や独自の軍事編成によって京畿の警護にあたり、秀次と宿老たちは朝鮮へ渡海することはありませんでした。
然しながら同四年四月に豊臣秀長の養子・秀保が謎の死を遂げ(享年一七)、後を追うように同年七月に秀次は謀反の疑いをかけられ切腹させられました(享年二八)。
翌慶長元年(1596)閏七月には畿内大地震が起こり、これは当時の人は秀次の祟りだと言い、翌年二月に秀吉は朝鮮再出兵の陣立てを定めました。