プロフィール

茶人兼秀吉の側近。名は与四郎、宗易(そうえき)。
和泉国(大阪府)堺に生まれ、町衆の間で流行していた茶の湯に興味を持つ。
わび茶を学び、信長に茶頭(さどう)として召し抱えられる。この時、宗易の席次は今井宗久・津田宗及の下。
信長が死去し、秀吉は関白就任後、前代未聞の禁中茶会を開催。これに際し、利休居士(こじ)の号を勅許された。
秀吉の側近として、豊臣秀長とともに政治にも深く関与。奥州仕置・伊達政宗対策を巡って、石田派と鎬(しのぎ)を削るが――
詳細
1.国際文化都市・堺
千利休は、和泉国(大阪府)堺の生まれ。
堺は、明との勘合貿易の根拠地としてから町衆(まちしゅう)と呼ばれる商業・手工業者が台頭。一六世紀には戦乱の世にあって、南蛮船の往来が盛んで、伝統文化に異国文化を加えた文化都市の様相を色濃くしていきました。
上層の堺衆の多くは海辺に倉庫を持ち、これを経営するは納屋衆(なやしゅう)。利休の父・田中与兵衛は、姓を千と改め、魚問屋と倉庫業を兼ねる中流の納屋衆でした。利休一四歳の時には既に千家の当主であり、通称は与四郎でしたが、二四歳頃に剃髪して宗易(そうえき)と名乗りました。
2.修行~信長茶頭
宗易は、堺の町衆の間で流行していた茶の湯に興味を持ち、一七歳で北向道陳(きたむき-どうちん)に茶の湯を学び、道陳を介して次に武野紹鴎(たけの-じょうおう)にわび茶を学びました。
その過程で、大徳寺の大林宗套(だいりん-そうとう)のもとで禅の修行にも励みました。
天文元年(1532)の頃から三好三人衆や松永久秀ら、畿内の大名らにも愛好され始め、永禄七年(1564)利休四二歳の時には一五代将軍・足利義昭を奉じて
織田信長が政権を樹立。
信長は政治的な意図もあって茶の湯に熱心に入れ込み、今井宗久と津田宗及(そうきゅう)、そして宗易を自らの茶頭(さどう)として召し抱えました。この時、宗易の席次は宗久・宗及の下でした。
3.茶会での失敗
当時茶会の主流は朝会で、北向道陳は「数寄は朝也」と主張。永禄一一年(1568)の冬、宗易は朝会を開かず逼塞(ひっそく)していました。それは墨蹟の目利きを誤ったことに起因しているようでした。
前年頃、宗易が近江国で百二〇貫で求めた南宋の禅僧・蜜庵咸傑(みつたんかんけつ)の墨蹟を茶会に出したとき、北向道陳と松江隆仙から「偽物か」と言われ、宗易は後に買物損と言われないためにすぐに焼き捨てたと『利休居士伝書』にあります。
茶器鑑定に自信を持つようになっていた宗易は、高額の墨蹟を茶掛けに用いたのに、客人はそれを褒めないばかりか、偽物ではないかと言った――
一九歳ころに本格的な茶湯の稽古をはじめてから、四七歳の現在に至るまでおよそ三〇年。ときに目利きに失敗しつつ宗易は、ひたすら茶湯一筋に生きようとしていました。まだ名人には遠かったけれども。
4.秀吉の側近
禁中茶会
信長が本能寺の変で倒れ、天正一三(1585)年七月に秀吉が関白就任し、同年一〇月には、前代未聞の禁中茶会を開催。
小御所の御菊見の間に正親町(おおぎまち)天皇および皇族ら六人を迎え、秀吉自ら茶を立てました。端の座敷では公卿や門跡らに、宗易こと「利休居士」(こじ)の点前で台子の茶湯が行われました。
利休は宗易の号に加え、永禄一〇年(1567)頃に大林和尚から利休という道号を授けられ、禁中茶会参仕のため春屋・古渓両和尚相談の結果、利休を居士号として認められたのを、秀吉の内奏によって勅許されました。
このあと秀吉の信任を得て、利休は宗久・宗及を抜いて筆頭茶頭。秀吉の傍らで茶事を行うため必然的に政治に巻き込れ、六〇代後半の利休は二〇余り年下の豊臣秀長とともに側近として秀吉を支えていきました。
北野大茶湯
同一五年一〇月一日、秀吉は北野天満宮社頭の松原で、北野大茶湯を開催。これに先立ち京都・堺・奈良などに高札が立ち、身分関係なく「唐国の者までも、数寄心がけ之(これ)在る者」に参会を呼びかけました。
かくして北野方一里に空所もなく茶席八〇〇余を急造。当日参会者は、秀吉の大坂城名物を拝観。また秀吉・利休・宗久・宗及の四席(ともに四畳半)いずれかの点前で茶を服しましたが、道具は全て秀吉秘蔵の大坂名物でした。
小田原合戦(宗二、政宗、竹の花入)
同一八年(1590)三月、利休は小田原征伐に従軍。
高弟・山上宗二(やまのうえ-そうじ)は、秀吉のお抱え茶頭の一人でしたが、秀吉の機嫌を損ね、天正一一年(1583)一〇月に北国へ下向。現在は後北条氏の茶頭であった宗二は、下野皆川城主・皆川広照につき従って、小田原城を脱出して秀吉に降りました。しかし耳と鼻をそがれて惨殺されたといいます。
一方、小田原に参陣した伊達政宗でしたが、遅参を理由に秀吉は謁見を拒否。
浅野長吉(長政)・
前田利家ら五人の詰問使を政宗の宿所に派遣しました。六月七日、政宗は詰問使が引き上げる際に、利休に茶道の指南を受けたいと斡旋を依頼。九日に秀吉と謁見しました。
政宗は、太刀一腰・馬代金一〇両を利休の宿所に届けましたが、贈り物は茶の湯指南に対する礼ではなく、秀吉との執り成し斡旋に対するものでした。
小田原の陣中にあって利休は、竹を切って花入としました。これは園城寺・尺八・音曲などの銘があります。利休が園城寺の筒に花を入れて床にかけると、ある人が「筒の割れ目より水がしたたり、畳の濡れたのを見て如何」と尋ねると、「これ水のもり(分量)候が命なり」と茶心に迫ると思われる返事をしました。
奥州仕置
利休は、奥州仕置・伊達政宗指南役の浅野長吉とは極めて親しく、こまごま用事を依頼したり、長吉が二本松在陣中にはその留守宅を見舞ったりしました。
一方、奥州仕置における動乱や蒲生氏郷との軋轢について政宗は、自ら上洛して弁明することが絶対に必要な状況となっていきました。
京都における形勢は微妙であり、政宗が罰せられるような事態になれば、指南役の長吉の立場も難しいものとなってくる――石田三成派と反石田派は、会津領・政宗対策を巡って鎬(しのぎ)を削っていました。
5.最期
天正一九年(1591)一月、秀長が病死。これにより、石田三成らの動きが活発化。二月四日、政宗が上洛し、九日には政宗に葛西大崎の地が与えられました。
その直後の二月一三日、弟子である富田左近・柘植左京亮が利休に、秀吉の上使として堺への屋敷へ「閉門」を言い渡しました。京都葭屋町(よしやまち)の聚楽屋敷を出た利休は、その夜堺の自宅に帰着。
大徳寺の山門は、資材不足のため門上の楼閣が未完成でしたが、一年半前の天正一七年頃、利休がそのうえに金毛閣(きんもうかく)を建て添えました。大徳寺は、利休の木像を山門閣上(内)に安置。大徳寺山門は、勅使はじめ関白秀吉もその下を通るのが常。その貴人たちの通る頭上に掲げるとは不敬、とされました。
秀吉は、利休が堺に帰ってから一〇日過ぎても詫びも入れてこないし、利休嘆願の運動もなかったので、磔にしようとしましたが、思い直して腹を切らせることにし、その代わり問題の木像を磔にしたといいます。
二六日、利休は呼び出されて葭屋町(よしやまち)の聚楽屋敷に入りました。その屋敷は、上洛在京中の上杉景勝の軍勢三〇〇〇によって厳重に警固されていました。
二八日、利休は茶湯の支度をして、尼子三郎左衛門・安威摂津守・蒔田淡路守の三検使を向かい入れました。一期一会の朝の茶湯ののち、無二の弟子でもあった蒔田の介錯で腹を切りました。武士並みの切腹で、せめてもの秀吉の温情であったようです。
この日は季節外れの雷雨で、北野天満宮の祭神(さいじん)菅原道真が利休を怒って雷雨を降らせたとうわさしました。また切腹の理由は「木像」というより、三成との政策抗争に敗れたことが大きな起因となったとされています。
秀吉の唐入りに強く反対していた秀長、そして茶の湯に際し朝鮮茶碗も使用していた利休の死によって、政権の朝鮮出兵が一気に現実のものとなっていくのでした…
千利休 相関図
千氏
- 父:田中与兵衛、母:月岑妙珍
- 妻:宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ)、宗恩(そうおん)
子供、孫
- 息子:道安(どうあん)。母は宝心妙樹。堺千家。
- 娘:亀(かめ)。夫は宗恩の子・少庵(しょうあん)。
- 孫:宗旦(そうたん)。亀と少庵の子。
曾孫:三千家
- 宗守(そうしゅ)・宗旦次男:武者小路千家
- 宗左(そうさ)・同三男:表千家。三千家の本家。
- 宗室(そうしつ)・同四男:裏千家
豊臣政権
茶の湯
参考文献
- 米原正義『天下一名人 千利休』(淡交社、1993)「利休誕生_若き日の利休」44-45頁、「利休逼塞_四 茶湯常住」77-80頁、「宗易を利休居士になされ」157-155、161-162頁、「北野大茶湯」180-186頁、「小田原従軍」225-230頁、「利休切腹」272頁
- 芳賀幸四郎「千利休」『国史大辞典8』(吉川弘文館、1987年)481-482頁
- 黒田和子『浅野長政とその時代』(校倉書房、2000年)「第八章 奥州仕置」197-200、229頁、「第九章 葛西大崎一揆」231-237頁
- 永原慶二 編『日本歴史大事典』(小学館、2000年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「千利休」322頁