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戦国武将解説

千利休(せんの-りきゅう)秀吉政治顧問の芸術家としての最後

目次

プロフィール

詳細:1.大坂の豪商のお坊ちゃま

2.秀吉の茶人兼側近 3.利休の最後

相関図関連記事参考文献

プロフィール

千利休
Rikyu Sen

茶人兼豊臣秀吉の側近。

芸術家は常軌を逸した人が多いのだが(ゴッホとかゴーギャンとか)、利休は常識のある芸術家だったので、茶人としてだけでなく、秀吉の弟・秀長とともに政治顧問まで任されてしまう。

しかし秀長死後は石田三成派が台頭し、秀吉にあらぬ罪状を突き付けられ、芸術家の宿命とも言える非業な死を遂げる。

秀長・利休死後、政権は一気に文禄・慶長の役へと突き進む――

享年70(1522-1591)。武田信玄柴田勝家らと同世代。

詳細

1.大坂の豪商のお坊ちゃま

千利休素材千利休は、安土桃山時代の茶人。和泉国(大阪府)堺の生まれ。父の田中与兵衛は、姓を千と改め、魚問屋と倉庫業を兼ねる豪商でした。

一四歳の時には既に千家の当主であり、利休の通称は与四郎でしたが、二四歳頃に剃髪して宗易(そうえき)と名乗りました。

利休は堺の町衆の間で流行していた茶の湯に興味を持ち、一七歳で北向道陳(きたむき-どうちん)に茶の湯を学び、道陳を介して次に、武野紹鴎(たけの-じょうおう)にわび茶を学びました。その過程で、大徳寺の大林宗套(だいりん-そうとう)のもとで禅の修行にも励みました。

天文元年(1532)の頃から三好三人衆や松永久秀ら、畿内の大名らにも愛好され始め、永禄七年(1564)利休四二歳の時には一五代将軍足利義昭足利義昭を奉じて織田信長織田信長が政権を樹立。

信長は、政治的な意図もあって茶の湯に熱心に入れ込み、今井宗久と津田宗及、そして利休を自らの茶頭(さどう)として召し抱えました。この時、利休の席次は宗久・宗及の下でした。

2.秀吉の茶人兼側近

信長が本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉豊臣秀吉が関白就任にあたり茶会が禁中小御所で開かれたとき利休は、正親町天皇正親町天皇に茶を献じて、利休居士の号を贈られました。

利休はこの後、秀吉の信任を得て、宗久・宗及を抜いて筆頭茶頭となりました。また、秀吉の傍らで茶事を行うため必然的に政治に巻き込れ、六〇代後半の利休は、二〇余り年下の豊臣秀長豊臣秀長とともに秀吉の側近として、政治に深く関与するようになっていきました。

3.利休の最後

小田原合戦の翌年、最大の利休の理解者である秀長が病死しました。これがきっかけで、反秀長・利休派の石田三成石田三成らの動きが活発化し、秀吉から堺へ下向の上、蟄居(ちっきょ)を命じられました。その一五日後、再び上洛した利休は聚楽屋敷で切腹しました。それは秀長の死から僅か一カ月後の出来事でした。

切腹の理由は、大徳寺山門に利休が自分の木像を掲げたなどとされていますが、三成との政策抗争に敗れたことが大きな起因となったと言えます。

利休の名は、虚名ではなく、日本人の生活文化は利休によってそれ以前とは異なる豊かさを獲得しました。

それは、簡素で静寂な境地を重視した侘茶、「利休ねずみ」(緑色を帯びたねずみ色)に象徴される色調、草庵風の茶室建築など、利休の様々な創造は茶の湯にとどまらない至高性を後世に残しました。

秀吉の朝鮮出兵の野望に強く反対していた秀長、そして茶の湯に際し朝鮮茶碗も使用していた利休の死によって、豊臣政権の朝鮮出兵が一気に現実のものとなっていくのでした。

韓国の大河ドラマ『不滅の李舜臣』に千利休が出てくるのですが、人格優れた人物として大変好意的に描かれています。利休ファンの方は是非チェックしてみてください♪

千利休 相関図

豊臣家

主君:豊臣秀吉豊臣秀吉/同僚且つ最大の理解者:豊臣秀長豊臣秀長

反派閥:石田三成石田三成

茶の湯ブームを作った武将

松永久秀織田信長織田信長

茶の湯を極めた弟子

蒲生氏郷蒲生氏郷細川忠興素材細川忠興荒木村重

弟子ではないが茶の湯仲間:細川藤孝(幽斎)細川藤孝

  

関連記事

千利休

肖像素材豊臣秀吉家臣団

参考文献

国史大辞典編集委員会『国史大辞典〈第8巻〉 』(吉川弘文館、1987年)

永原慶二 編『日本歴史大事典』(小学館、2000年)

小和田 哲男監修『ビジュアル 戦国1000人 ―応仁の乱から大坂城炎上まで乱世のドラマを読む 』(世界文化社、2009年)

『百科事典 マイペディア 電子辞書版』(日立システムアンドサービス)