基本データ
概要
陣容
城内日本軍2,000人
- 大将:加藤清正
- 先手防御:宍戸元続
- 部隊:浅野幸長、太田一吉らほか太田軍医僧 慶念
- 救援軍13,000人:毛利秀元3900、黒田長政600、鍋島直茂1600、蜂須賀家政2,200、加藤嘉明、長宗我部元親、小早川秀秋ら
明・朝鮮連合軍 57,000人
- 経略:楊鎬
- 先鋒:遊撃軍 擺賽(さいはい)
- 左協:副総兵 李如梅(りじょばい)12,600人、忠清道兵使 李時言ら朝鮮軍4,000人
- 中協:副総兵 高策(こうさく)11,700人、慶尚道右兵使 成允門ら朝鮮軍5,200人
- 右協:副総兵 李芳春(りほうしゅん)11,600人、慶尚道左兵使 鄭起龍ら朝鮮軍3,300人
- 本軍:提督 麻貴(まき)8,500人
- 経略 補佐:都元帥 権慄、降倭 沙也可
結果
日本軍:城を死守。救援軍、敵を追撃できず。/明・朝鮮連合軍:日本軍が一気に戦線縮小に傾く。
解説
1.経緯
豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)、日本軍が朝鮮へ再侵攻。
これに対して明は、朝鮮に援軍を再派遣。指揮官には経略・邢玠と楊鎬、提督・麻貴らがいました。
緒戦は日本軍優勢で、八月に黄石山(ファンソクサソン)と南原城が陥落し、日本軍による大量殺戮と鼻切りが行われました。
事態の深刻化を受け平壌から南下した楊鎬は、日本軍ソウル侵入を稷山(チクサン)で阻止するよう指令。これにより明軍は北上してきた黒田長政・毛利秀元ら軍を迎撃しソウル侵入を阻止しました。これ以降、日本軍は進軍せずに各将が朝鮮南岸一帯に築いた倭城倭城に籠りました。
2.過酷な築城
同年一一月より加藤清正・浅野幸長らは、慶尚道・蔚山(ウルサン)に倭城の築城工事をスタートさせました。
普請は幸長と毛利秀元家臣の宍戸元続が担当。軍目付は太田一吉。完成後に城を清正に引き渡し、清正は蔚山を軍事拠点にするという、秀吉の指示あってのことでした。
この普請は医僧・慶念の日記によると「日本から連れてきた農民を朝から晩まで城普請の材木採りに駆り立て、その労役を怠ったり、逃走する者あらば首枷をかけ焼金(火印)をあてる、またはその首を斬る」という過酷さでした。
3.攻撃目標は清正
明の邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは、日本軍のシンボリックな存在・清正。
これに都元帥・権慄も朝鮮軍を率いて加わり同年一二月二三日、明・朝鮮連合軍六万の大軍が日本軍二千余が籠る普請半ばの蔚山倭城を囲みました。
明・朝鮮連合軍の布陣は、総司令官は楊鎬、その下に三協(三部隊)の左協・副総兵 李如梅(りじょばい)、中協・副総兵 高策(こうさく)、右協・副総兵 李芳春(りほうしゅん)を配置。更に朝鮮軍も三協に併せて編成されました。
このとき清正は西生浦倭城にいて、城内の幸長・宍戸元続・太田一吉らは防戦にあたりましたが、一吉は傷を負いました。
4.地獄の十日間
蔚山の急を聴いた清正は西生浦から船で急ぎ駆けつけ、二四日に蔚山に入城。かくして本丸を浅野幸長・太田一吉、二の丸を清正・宍戸元続、三の丸を清正・毛利家臣がそれぞれ担当することになりました。
容易に外廓を突破した明・朝鮮連合軍は、本丸・二の丸・三の丸に攻め入りました。しかし普請半ばとはいえ城は堅固で、石垣に登ろうとすると上から激しく銃撃を浴びせられ死者数が続出。
このため楊鎬と麻貴は無理に攻めることをやめて、兵糧攻めの持久戦に転じました。
城内は、突然包囲されたこともあって充分な食料もなく、敵に水道を立たれてしまったため水も飲めず、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。楊鎬は降伏を勧告する文書を作製し、これを清正の元家臣で降倭の沙也可に持たせました。
楊鎬の命を受けて沙也可は、騎馬で蔚山の近くまで行き、日本語で名乗り、城を明け渡し退散すれば軍兵の命は助かると清正に勧告。日本軍は戦闘能力も士気もなくなっていたので、清正は和議に応じることを決意しましたが、幸長は「敵情量リカタシ」と反対。
それでも清正が和議に応じようとしたところ、年明け二日に毛利秀元・黒田長政・鍋島直茂・加藤嘉明ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。五日、楊鎬が全軍に撤退命令を出して一〇日余続いた蔚山の戦いはついに終了。しかし秀元ら救援軍は敗走する敵軍を追撃しませんでした。
理由は、救援を急いで兵糧も兵士の数も満足でなかったことや、自分の居城(倭城)が心もとないのが原因でした。また、この戦いにより恐怖のどん底に陥れられた日本軍は、一気に戦線縮小・撤退案に傾いていくのでした。
参考文献
- 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』(吉川弘文館 、2007年)