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戦国人物解説

堀尾吉晴(ほりお-よしはる)「仏の茂助」の魅力が満載の『太閤記』

目次

プロフィール詳細相関図参考文献関連記事

プロフィール

堀尾吉晴
Yoshiharu Horio

国宝・松江城を築城した戦国大名。幼名 仁王丸、通称 茂助。

儒医で『太閤記』著者・小瀬甫庵イチオシの人物。

謙虚な姿勢を貫いて出世街道まっしぐら!その過程で豊臣政権三中老という五大老の次に偉いナゾの役職につく。

晩年は浪人の就職の斡旋まで行い、「仏の茂助」が止まらない――!?

享年69(1543-1611)。

同い年は陳璘徳川家康柳成龍九鬼嘉隆と同世代。

詳細

1.儒医の推しメン

尾張国の土豪・堀尾泰晴の長男として天文一二年(1543)に生まれた吉晴。豊臣秀吉秀吉に早くから仕え、数々の武功を立てて、豊臣政権三中老の一人となりました。

さて、儒医の小瀬甫庵(おぜ‐ほあん)著作『太閤記』には戦国名将列伝という章があり、豊臣秀長竹中半兵衛板倉勝重と並んで吉晴が紹介されています。

しかも"堀尾帯刀先生(せんじょう)吉晴"の章は、他の名将より多くのページを割いています。これには小瀬甫庵が以前、吉晴に仕えていたという事情があったのでした。

『太閤記』"堀尾帯刀先生吉晴"を読むと「仏の茂助」と呼ばれていただけあって、吉晴がとんでもなく謙虚でいいヤツ!だったことがわかります。

それでは『太閤記』に記されている吉晴の魅力を紹介しつつ、その生涯を以下に見ていきます。

2.芯の強い一六歳

仁王丸(吉晴の幼名)は一六歳の時、夜戦の折に一番首を取ってきました。しかし小さい頃から穏やかな人柄だったので「お仁王が一番首を取れるはずがない」と誰一人信用してくれませんでした。

翌日、味方が打ち破られて総崩れとなり、仁王丸の叔父が馬から降りてゆう然としている仁王丸に退却しろと荒々しく言いました。しかし仁王丸は、若党の山田小一郎が見当たらないので退却せずに待っていると答えました。

のちに小一郎を伴って帰陣。これを知った人々は「前夜の一番首も仁王丸が取ったものと相違ない」と、はじめて一目おくようになったのでした。小瀬甫庵著『太閤記』

3.一氏との喧嘩

一七歳の時に茂助と名を変えましたが、相変わらず誠実で女性のように控え目。しかし言うべきことがあれば、相手が誰であろうがハッキリ言いました。

小田原合戦(秀吉VS北条氏政北条氏政)において、茂助四八歳の占めていた陣地がよい場所であったのを、中村一氏が豊臣秀次豊臣秀次にお願いして取ってしまいました。一氏はその甲斐あって一番乗りを果たし、茂助は秀次の前で一氏の恨みを述べました。

周りは茂助の左右の手を取って連れて行こうとしましたが、返って茂助を大目玉で怒らせ、あわや一氏と刺し交えるほどで、ついには言いたいことだけ余さず言ったのでした。『太閤記』

そののち豊臣政権が樹立すると、それまでの功績が秀吉から認めらえた茂助は、生駒一正(いっせい)、中村一氏とともに大老と奉行の意見の調整役である三中老に任じられました。

4.関ヶ原の戦い

秀吉没後は、次第に徳川家康徳川家康に接近。関ヶ原の戦いで吉晴は東軍に属しました。

しかし本戦前の七月、浜松から越前に向かう途中、三河国(愛知県東部)池鯉鮒(ちりふ)で三河国刈屋(かりや)城主・水野忠重、美濃国加賀井城主・加賀井重望(しげもち)と会合を持ち、その席で加賀井重望から吉晴は斬りつけられ重傷を負いました。しかしこれを討ち取り、水野忠重は死亡しました。

関ヶ原本戦には子の忠氏(ただうじ)が参戦。その功で忠氏は出雲国(島根県)と隠岐国(同県)に二四万を与えられ、茂助は帯刀先生吉晴と号するに至りました。

5.自慢話はしない

あるとき忠氏はある人に父吉晴の武功について尋ねられました。しかし忠氏はよく知らず、答えられなかったことを恥じ、父吉晴に尋ねました。しかし吉晴は「もう、古いことだからと」とはっきり答えません。

忠氏は食い下がって繰り返し尋ねて、やっとだいたいのことを語りました。

例え親子の間でも自分の武功を進んで語るなどはどうかと思っていたほどで、ましてや他人にそれを語るなど、まことに恥ずかしいと吉晴は考えていたのでした。『太閤記』

6.就職の斡旋

吉晴は晩年、多くの浪人の面倒をみて他家へ奉公を斡旋。しかも老体でありながら、一度だけでなく三度まで面倒見ることもあり、それは一〇〇人にも及びました。

吉晴曰く「諸大名たちに頭を下げてどうか浪人を抱えて頂きたいと回るのは大変だけれど、家康公が危機の時、出雲に戻って軍を動かそうとしたならば時期を失ってしまうので、他国にも自分の協力者がいたほうがいい。」

また家臣が病床についた時は医師二、三人、小姓二人ほどつけて油断なく看病するよう命じました。『太閤記』

7.儒医と築く城

関ヶ原後、吉晴は尼子経久の居城のあった富田城に入りましたが忠氏が早世、孫の忠晴は幼少の為、吉晴が国政を執りました。

吉晴は忠氏の遺志を継ぎ、松江城に着手。松江城の縄張りは小瀬甫庵の説があり、五年の歳月を費やして築城して吉晴は病死しました。享年六八

小瀬甫庵は、吉晴という武将を通してそういう倫理や道徳心を『太閤記』読者に伝えたかったのだと思います。そのようなわけで、表題に反して茂助の魅力がたくさん詰まった『太閤記』です。(笑)

堀尾吉晴 相関図

主君

豊臣秀吉豊臣秀吉徳川家康徳川家康 

仲良し

山内一豊山内一豊

参考文献

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堀尾吉晴イラスト:ほっこりPOP秀吉家臣団