プロフィール

尾張国(愛知県)出身。国宝・松江城を築城した戦国大名。
仏の茂助と呼ばれただけあって、謙虚な姿勢を貫いて出世街道まっしぐら!
その過程で豊臣政権三中老という五大老の次に偉い、ナゾの役職につく。
儒医で太閤記の作者・小瀬甫庵イチオシの武将でもある。
詳細
1.小瀬甫庵、イチオシの武将
尾張国の土豪・堀尾泰晴の長男として天文一二年(1543)に生まれた吉晴。幼名は仁王丸、通称は茂助です。
豊臣秀吉に早くから仕え、数々の武功を立てて、豊臣政権三中老の一人となりました。
さて、儒医の小瀬甫庵(おぜ‐ほあん)の著作『太閤記』に、戦国名将列伝という章があり、竹中半兵衛、板倉勝重と並んで茂助が紹介されています。
しかも"堀尾帯刀先生(せんじょう)吉晴"と、ぎょうぎょうしく題して、他の名将より多くのページを割いています。実は、著者の小瀬甫庵は以前、茂助に仕えていたという事情があったのでした。
『太閤記』の"堀尾帯刀先生吉晴"を読むと、何がすごいって、「仏の茂助」と呼ばれただけあって、とんでもなく謙虚でいいヤツ!どんなふうに?ということで茂助の人生とお人柄を以下に見ていきましょう。
2.帰って来ない家来を待つ
茂助こと仁王丸は一六歳の時、夜戦の折、一番首を取ってくるのですが、小さい頃から穏やかな人柄だったので、「お仁王が一番首を取れるはずがない」と誰一人信用してくれませんでした。
しかし翌日、味方が打ち破られて総崩れとなり、茂助の叔父が、馬から降りてゆう然としている仁王丸に退却しろと荒々しく言いました。しかし仁王丸は、若党の山田小一郎が見当たらないので退却せずに待っていると答えました。
のちに小一郎を伴って帰陣。これを知った人々は「前夜の一番首も仁王丸が取ったものと相違ない」と、はじめて一目おくようになったのでした。
3.中村一氏と三中老
一七歳の時に茂助と名を変え、相変わらず誠実で女性のように控え目な性格の茂助。しかし、言うべきことがあれば、相手が誰であろうがハッキリ言いました。
小田原合戦(秀吉VS北条氏政)において、茂助の占めていた陣地がよい場所であったのを、中村一氏が
豊臣秀次にお願いして取ってしまいました。一氏はその甲斐あって、一番乗りを果たし、茂助は秀次の前で一氏の恨みを述べました。
周りは茂助の左右の手を取って連れて行こうとしましたが、返って茂助を大目玉で怒らせ、あわや一氏と刺し交えるほどで、ついには言いたいことだけ余さず言ったのでした。
その後、豊臣政権が樹立すると、それまでの功績が秀吉から認めらえた茂助は、生駒一正(いっせい)、中村一氏とともに大老と奉行の意見の調整役である三中老に任じられました。
4.松江城の築城
秀吉没後は、次第に徳川家康に接近。関ヶ原の戦いで、茂助は東軍に属しました。
しかし本戦前の七月、浜松から越前に向かう途中、三河国(愛知県東部)池鯉鮒(ちりふ)で三河国刈屋(かりや)城主・水野忠重、美濃国加賀井城主・加賀井重望(しげもち)と会合を持ち、その席で加賀井重望から斬りつけられ重傷を負いました。しかしこれを討ち取り、水野忠重は死亡しました。
関ヶ原本戦には、子の忠氏(ただうじ)が参戦。その功で忠氏は出雲国(島根県)と隠岐国(同県)に二四万石を与えられ、茂助は帯刀先生吉晴と号するに至りました。そして、尼子経久の居城のあった富田城に入りました。
しかし忠氏が早世、孫の忠晴は幼少の為、吉晴が国政を執りました。また、吉晴は忠氏の遺志を継ぎ、松江城に着手、五年の歳月を費やした築城工事を目前にして病死しました。享年68
仏なエピソード
息子にも自慢話はしない
さて、あるとき、忠氏はある人に父・吉晴の武功について尋ねられました。しかし忠氏はよく知らず、答えられなかったことを恥じ、父・吉晴に尋ねました。しかし吉晴は「もう、古いことだからと」と、はっきり答えませんでした。
忠氏は食い下がって「父の武功を問われても答えられないようでは、他人は武勇の道を好まない息子と思いましょう。」と繰り返し尋ねて、やっとだいたいのことを語りました。
例え親子の間でも自分の武功を進んで語るなどはどうかと思っていたほどで、ましてや他人にそれを語るなど、まことに恥ずかしいと考えていた吉晴でした。
家臣の就職斡旋
吉晴は晩年、多くの浪人の面倒をみて、他家へ奉公を斡旋。しかも老体でありながら、一度だけでなく三度まで面倒見ることもあり、それは一〇〇人にも及びました。
吉晴曰く「諸大名たちに頭を下げてどうか浪人を抱えて頂きたいと回るのは大変だけれど、家康公がピンチの時、出雲に戻って軍を動かそうとしたならば時期を失ってしまうので、他国にも自分の協力者がいたほうがいい。」
また、家臣が病床についた時は、医師二、三人、小姓二人ほどつけて油断なく看病するよう命じたりと、「仏の茂助」のほっこり話は小瀬甫庵の太閤記に多く載っています。
派手な武功はない。けれどいつも謙虚で家臣を思いやることを忘れないを大事にして出世していった、というのは戦国乱世にあって驚くべきです。そして甫庵という儒者は、堀尾吉晴という武将を通して、そういう倫理や道徳心を読者に伝えたかったのだと思います。
堀尾吉晴相関図
主君
仲良し
関連トピック
参考文献
註1: 小瀬 甫庵 (著), 吉田 豊 (翻訳) 『太閤記 4 秀吉の遺産 (教育社新書 原本現代訳 10) 』(ニュートンプレス 、1979年)
註2:国史大辞典編集委員会 (著)『国史大辞典 (12)
』(吉川弘文館、1979年)