目次
プロフィール
近江国(滋賀県)出身。秀吉の側室。
日本で初めてタバコを吸った女。らしい
お市の方が柴田勝家と再婚し、賤ヶ岳に勝家が秀吉に敗れると、秀吉の側室となり、鶴松を出産するも夭逝。秀頼を出産して豊臣政権の実権を握る。
詳細
1.二人の父の死
淀殿は、近江国小谷城主浅井長政と織田信長妹のお市の方の長女として生まれ、茶々(ちゃちゃ)と呼ばれていました。
元亀元年(1570)六月、姉川の戦いにて朝倉義景・浅井長政連合軍は信長に敗れました。しかし信長は浅井・朝倉の首取れず、天正元年(1573)八月、織田軍は再び越前に侵攻。朝倉軍を壊滅させて、小谷城の浅井氏は完全に孤立。同月長政は父久政とともに自害。お市の方と三人の娘は信長のもとに送り届けました。
お市の方は信長三男の信孝の勧めで、柴田勝家と再婚。しかし同一一年(1583)勝家が賤ヶ岳の戦いにて豊臣秀吉に敗れ、勝家はお市の方と共に自害しました。
2.二人の子の誕生
秀吉に庇護された茶々は、その五年後の天正一六年(1588)に秀吉の側室になりました。秀吉の正室・北政所に子供はできず、また秀吉の多くの側室にも子供はできませんでした。
しかし茶々が秀吉の子を懐妊。秀吉は山城の淀城(京都市伏見区)を改修し、茶々はここを居城としたので「淀殿」と呼ばれました。同一七年(1589)五月に第一子・鶴松を出産するも、同一九年八月に夭折。
文禄元年(1592)四月に朝鮮出兵がおこり、翌同二年八月に秀頼を出産。淀殿は豊臣家の実権を握るようになりました。
しかし慶長三年(1598)六月に朝鮮・明軍との戦争の真っ只中において秀吉が死去。徳川家康が動き出します。同五年九月関ヶ原の戦いにおいて、石田三成率いる豊臣方が奮戦するも、徳川方に敗れると豊臣は弱体化していきました。
3.大坂の陣
慶長一六年(1611)家康七〇歳が、御水尾天皇即位のため京に赴くのを機に、秀頼一九歳を二条城に呼んで臣下の礼をとらせました。
また生前に後顧の憂いを断つため家康は、金地院崇伝を通して秀頼が再建した方広寺の鐘に難癖をつけました。かくして秀頼の江戸参勤、淀殿を人質として江戸へ差し出す、秀頼の国替えの三案の何れかを飲むよう要求。
大坂方はこれを拒否してついに挙兵し、兵を集めました。これに対し家康は大軍をもって大坂城を包囲。同一九年(1614)大坂冬の陣で淀殿は、緋縅(ひおどし)の鎧を着けて、城内を騎馬女中三十ばかりを引き連れて騎馬で見回ったり、指図しました。
元和元年(1615)五月、大坂方の真田幸村らは徳川の大軍に奮戦するも衆寡敵せず、淀殿と秀頼は自害して大坂城の栄華はここに幕を下ろしました。
妹のお江に立ちふさがった春日局は、むしろ家康を手玉に取った、戦乱が生んだ奇怪な女。反面、淀殿は北政所に畏服して、驕慢(きょうまん)の色も見せなかったようです。よくもわるくも、育ちのよさや矜持の方が強い印象の女性です。
淀殿 相関図
豊臣氏
親類縁者
浅井氏
織田氏
柴田氏
- 養父:勝家
ライバル
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「大坂冬の陣・夏の陣」160-165頁