戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 戦国人物一覧

戦国人物解説

淀殿(茶々)/よどどの(ちゃちゃ)とは 男は全員わらわに跪くがいい

目次

プロフィール詳細:1. 二人の父の死 2.二人の子の誕生

3.大坂の陣相関図参考文献関連記事

プロフィール

淀殿(茶々)
Yododono

近江国(滋賀県)出身。豊臣秀吉の側室。

日本で初めてタバコを吸った女性。らしい

浅井長政信長の妹・お市の方の長女として生まれる。

お市の方が柴田勝家と再婚し、賤ヶ岳に勝家が秀吉に敗れると、秀吉の側室となり、鶴松を出産するも夭逝。秀頼を出産して豊臣政権の実権を握る。

関ヶ原の戦いで豊臣方敗れるも、徳川にひれ伏さず、大坂の陣で家康と全面対決する――!

享年49?(1567?-1615)。

詳細

1.二人の父の死

豊臣家系図
図:豊臣家系図

淀殿淀殿は、近江国小谷城主浅井長政浅井長政織田信長織田信長妹のお市の方お市の方の長女として生まれ、茶々(ちゃちゃ)と呼ばれていました。

元亀元年(1570)六月、姉川の戦いにて朝倉義景朝倉義景・浅井長政連合軍は信長に敗れました。しかし信長は浅井長政・朝倉義景の首を取るれず、天正元年(1573)八月、織田軍は再び越前に侵攻。朝倉軍を壊滅させて、小谷城の浅井氏は完全に孤立。同月長政は父久政とともに自害。お市の方と三人の娘は信長のもとに送り届けました。

お市の方は信長三男の信孝の勧めで、柴田勝家柴田勝家と再婚。しかし同一一年(1583)勝家が賤ヶ岳の戦いにて豊臣秀吉豊臣秀吉に敗れ、勝家はお市の方と共に自害。

2.二人の子の誕生

秀吉に庇護された茶々は、その五年後の天正一六年(1588)に秀吉の側室となりました。秀吉の正室・北政所北政所に子供はできず、また秀吉の多くの側室にも子供はできませんでした。

しかし茶々が秀吉の子を懐妊。秀吉は山城の淀城を改修し、茶々はここを居城としたので「淀殿」と呼ばれました。同一七年(1589)五月に第一子・鶴松を出産するも、同一九年八月に死去。

文禄元年(1592)四月に朝鮮出兵がおこり、翌文禄二年八月に豊臣秀頼豊臣秀頼を出産。淀殿は豊臣家の実権を握るようになりました。

しかし慶長三年(1598)六月に朝鮮・明軍との戦争の真っ只中において秀吉が死去。徳川家康徳川家康が動き出します。同五年九月関ヶ原の戦いにおいて、石田三成石田三成率いる豊臣方が奮戦するも、徳川方に敗れると豊臣は弱体化していきました。

3.大坂の陣

慶長一六年(1611)家康七〇歳が御水尾天皇即位のため京に赴くのを機に、秀頼一九歳を二条城に呼んで臣下のをとらせました。

また生前に後顧の憂いを断つため家康は、金地院崇伝を通して秀頼が再建した方広寺の鐘に難癖をつけました。かくして秀頼の江戸参勤、淀殿を人質として江戸へ差し出す、秀頼の国替えの三案の何れかを飲むよう要求。

大坂方はこれを拒否してついに挙兵し、兵を集めました。これに対し家康は大軍をもって大坂城を包囲。慶長一九年(1614)大坂冬の陣で淀殿は、緋縅(ひおどし)の鎧を着けて、城内を騎馬女中三十ばかりを引き連れて騎馬で見回ったり、指図しました。

元和元年(1615)五月、大坂方の真田幸村真田幸村らは徳川の大軍に奮戦するも衆寡敵せず、淀殿と秀頼は自害して大坂城の栄華はここに幕を下ろしました。

淀殿 相関図

豊臣一門

夫:豊臣秀吉秀吉/子:鶴松・豊臣秀頼秀頼

秀吉正室:北政所北政所

実家、親戚

父:浅井長政浅井長政、母:お市の方お市の方/養父:柴田勝家柴田勝家

妹:常高院お初崇源院お江

伯父:織田信長織田信長 いとこ:織田信忠信忠織田信雄信雄信孝

ライバル

徳川家康徳川家康本多正信金地院崇伝  

味方

石田三成石田三成真田幸村真田幸村

参考文献

関連記事

淀殿

肖像素材/イラスト:リアル北政所と