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文禄・慶長の役

方広寺とは 秀吉が建立した幻の京都・東山大仏

序文

本邦の(方広寺の)大仏殿は聖武帝に俑(よう:悪い先例がはじまる)す。しかる後、源頼朝、奈良・鎌倉の二所に造る。材を以てこれを言へば、国中の名木を尽(つ)くし、銅を以てこれを言へば、国中の良銅を尽くす。その費(ついえ)は幾億兆といふを知らず。十三 大仏殿_羅山林先生文集[文献3]

東大寺大仏殿 焼失

永禄一〇年(1567)一〇月、東大寺に陣を置いた三好三人衆松永久秀が抗戦。久秀は勝利を収めましたが、このとき東大寺の大仏殿が焼失しました。

来日のイエズス会宣教師 ルイス・フロイスが1586年(天正一四)10月17日付けで、インド管区長(かんくちょう)パードレ・アレッサンドロ・バリニヤノに送った報告書には、こう記されています。

「奈良の市の大仏を、金で塗った千余体(せんよたい)の仏像のある大寺院(三十三間堂)の附近に造することを命じた。」

ここから豊臣秀吉秀吉が、焼け落ちた東大寺大仏殿を再建するかわりに、京都に新たな大仏を建立しようとしたことが伺えます。

秀吉の大仏建立

概要

三十三間堂や京都国立博物館を訪れ、かつてこの地に大仏殿と大仏があったことに思いをはせる――なんて人はまずいないのではないでしょうか。

京都・東山の方広寺(ほうこうじ)大仏殿は、奈良の東大寺大仏殿を上回る規模。秀吉により、天正一六年(1589)五月から普請が開始されました。秀吉が文禄・慶長の役朝鮮侵略に臨み、国家の精神的統一を目指したと考えれます。

刀狩令(天正一六年)の二条目には、取り上げた武具は建立する大仏の釘・かすがいとして寄進するので、百姓は今生(こんじょう)のみならず来世まで助かるであろう、とあります。

本尊は六(約18m)におよぶ大仏でしたが、この大仏の姿を伝える絵などは何一つ遺されていません。

普請と人足

林羅山[文献3]曰く、大仏普請は一般に「工師・匠人数千、斧を取りて深山・幽渓の間に入り、必ず大木の数十囲(い)(ひと抱え約250m)、数十尋(じん)(約250mまたは210m)なるを求めて、羅列して以てこれを伐(き)る。…これ皆、民を駆(か)りてこれが役(えだち:労役者)となす。」

かくして秀吉が「国内の人を労し、国内の材を集めて」大仏を建てんがための、主な関係者は以下の通り。

総指揮

  • 木喰応其(もくじきおうご):興山上人(こうざんしょうにん)とも。武士出身。高野山の僧(正規の僧ではないらしい)。秀吉の大仏建立の総指揮を担い、大仏本願(ほんがん)と呼ばれていたらしい。

普請手伝

天正一六年(1588)七月五日の秀吉の朱印状(鍋島文書)による人足(にんそく:労働者)の合計は六万二一一〇人。

  • 前田利家前田利家:子の利長と併せて人足一万人を負担。
  • 宇喜多秀家宇喜多秀家:人足一万人を負担。前田親子と並んで、人足数の負担が最も多い大名。

材木

  • 毛利輝元毛利輝元:天正一九年(1591)正月一五日の秀吉からの朱印状(毛利家文書)によれば「中国にこれある大仏殿材木」松・檜(ひのき)・杉・楠といった種類から長さ、数量まで指示し、合わせて一三二二本の提供を命じられた。毛利氏の領国が、中国山地という豊かな山林を抱えていたことによる。
  • 小早川隆景小早川隆景:同一六年「大仏殿材木注文」が遣わされ、その後も度々、材木に関わる指示あり。
  • 島津氏:同一七年「大仏殿柱壱本」、文禄四年「屋久島」の「大仏の材木」。
  • 徳川家康徳川家康:同年八月「京都東山大仏の柱を富士山より出(い)だすべき」(当代記)

大仏の運命

大仏の名

大仏住持

  • 道澄(どうちょう):(天台宗総本山)聖護院門跡(もんぜき)。天正一八年一一月、聚楽邸で秀吉と朝鮮通信使金誠一らの対面に同席。文禄四年九月に東山大仏住持に任じられる。

大仏普請と並び、秀吉は朝鮮侵攻のため天正一九年、肥前(佐賀県)名護屋に巨大な城を築くこととしました。石垣普請は島津氏ら九州諸大名、人足は常陸佐竹義宣も負担しました[文献4]。

文禄元年(1592)四月に、日本の諸将朝鮮へ侵攻。同四年(1595)、東山の大仏・大仏殿・回廊などが完成。聖護院門跡の道澄が住持となり、完成に近づいていた寺の名は単に「大仏」でした。江戸時代前期に「方広寺」と呼ばれるようになったと考えられます。

同年九月には、秀吉の先祖供養の法会(ほうえ)が執り行われました。これは次第に大仏千僧会(せんぞうえ)と呼ばれ、八宗八〇〇人の僧による法会となりました。

大仏大破

慶長の役の最中の慶長元年(1596)七月、畿内に地震がおこりました。

天正一六年(1589)から七年ほど要して完成した大仏は、この地震により僅か一年ほどで大破。本尊(大仏)は「左の御手は崩れ落ちおわんぬ(落ちてしまった)、御胸崩れ、そのほかところどころに響(ひび)これあり」(義演准后日記)。しかし「奇妙」なことに、これを収めている大仏殿の方は無事でした。

そこで善行寺(現 長野県)の如来[]を大仏殿に移すことになり、文禄・慶長の役の参謀・西笑承兌西笑承兌が一役買いました。これにより慶長二年七月に善光寺如来がおさまった大仏殿は、善光寺如来堂と呼ばれるようになりました。

また秀吉の命により承兌は、大仏殿の近くに築かれた鼻塚(耳塚)において大施餓鬼会(せがきえ)を執行。詳しくは左記承兌のリンク先参照のこと。

善光寺如来

一方の京都・伏見の秀吉は、文禄三年ころから体調がすぐれなかったようで、文禄五年の春にはかなり深刻な状態に陥っていたといいます。

すなわち善光寺如来の遷座は、秀吉の病気平癒(へいゆ)の可能性があるも、病は癒えませんでした。かくして改めて病気平癒のためか、善光寺如来は同三年八月一七日に信州善光寺に送ることになりました。しかし秀吉六二歳はその翌日に死去しました。

秀吉死後

方広寺鐘銘事件

秀吉死後、大破した大仏を再建することになりましたが、同七年(1602)一二月四日、作業中に大仏の胴体より火があがり、大仏はおろか大仏殿までも灰となりました。

同一七年(1612)徳川家康家康のすすめで、豊臣秀頼豊臣秀頼により大仏や大仏殿が再建されましたが、姿かたちも目的も別のもとでした。

同一九年には巨大な鐘も成りましたが、この巨鐘の銘の一部の文字に難癖をつける役を買ったは金地院崇伝。崇伝は、承兌の推薦により家康に仕えた人物。この方広寺鐘銘事件をきっかけに家康は、大坂冬の陣を引き起こしました。

その後、寛文二年(1662)地震でまたも大仏が大破、寛政一〇年(1798)の落雷で大仏殿も焼失しました。

現在

東山大仏の現在は、京都市東山区に巨大な石垣で築かれた基壇(きだん)が残るのみ。三十三間堂の北側、京都国立博物館の一部を含んだ一帯、豊国神社や方広寺が所在する場所がその故地です。

補註

このころの善光寺如来は、信濃国善光寺から甲斐国善光寺に移されていた。これを秀吉が京都へ移した。

参考文献

  1. 河内将芳『秀吉の大仏造立(シリーズ権力者と仏教)』(法蔵館、2008年)
  2. 佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖『詳説日本史研究』(山川出版社、2017年)「第六章 幕藩体制の確立 2幕藩体制の成立」243頁
  3. 石田一良 校注「十三 大仏殿_羅山林先生文集」『藤原惺窩 林羅山(日本思想体系28)』(岩波書店、1975年)218-220頁
  4. 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)「一五九一年十月」148-155頁

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