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文禄・慶長の役

方広寺とは 秀吉建立の京都・東山の大仏殿

東大寺大仏殿 焼失

永禄一〇年(1567)一〇月、東大寺に陣を置いた三好三人衆松永久秀が抗戦。久秀は勝利を収めましたが、このとき東大寺の大仏殿が焼失しました。

来日のイエズス会宣教師 ルイス・フロイスが1586年(天正一四)10月17日付けで、インド管区長(かんくちょう)パードレ・アレッサンドロ・バリニヤノに送った報告書には、こう記されています。

「奈良の市の大仏を、金で塗った千余体(せんよたい)の仏像のある大寺院(三十三間堂)の附近に造することを命じた。」

ここから豊臣秀吉秀吉が、焼け落ちた東大寺大仏殿を再建するかわりに、京都に新たな大仏を建立しようとしたことが伺えます。

秀吉の大仏建立

概要

三十三間堂や京都国立博物館を訪れ、かつてこの地に大仏殿と大仏があったことに思いをはせる――なんて人はまずいないのではないでしょうか。

京都・東山の方広寺(ほうこうじ)大仏殿は、奈良の東大寺大仏殿を上回る規模。天正一七年(1589)年、秀吉が国家鎮護を祈願する目的で創建されました。文禄・慶長の役朝鮮侵略に臨み、国家の精神的統一を目指したと考えれます。

刀狩令(天正一六年)の二条目に、取り上げた武具は建立する大仏の釘・かすがいとして寄進するので、百姓は今生(こんじょう)のみならず来世まで助かるであろう、とあります。

文禄四年(1595)には大仏・大仏殿・回廊などが完成。本尊は六(約18m)におよぶ大仏でした。

大仏大破

慶長の役の最中の慶長元年(1596)畿内に地震がおこりました。これにより大仏は大破。しかしこれを収めている大仏殿の方は無事でした。そこで善行寺(現・長野県)の如来を大仏殿に移すことになり、文禄・慶長の役の参謀・西笑承兌西笑承兌が一役買いました。詳しくは左記承兌のリンク先参照のこと。

方広寺鐘銘事件

徳川家康家康のすすめで、同一七年(1612)豊臣秀頼により本堂は再建され、同一九年には巨大な鐘も成りました。この巨鐘の銘の一部の文字に難癖をつける役を買ったは金地院崇伝。崇伝は承兌の推薦により家康に仕えた人物。この方広寺鐘銘事件をきっかけに家康は、大坂冬の陣を引き起こしました。

その後、寛文二年(1662)地震でまたも大仏が大破、寛政一〇年(1798)の落雷で大仏殿も焼失しました。

現在

東山大仏の現在は、京都市東山区に巨大な石垣で築かれた基壇(きだん)が残るのみです。三十三間堂の北側、京都国立博物館の一部を含んだ一帯、豊国神社や方広寺が所在する場所がその故地です。

参考文献

  • 河内将芳『秀吉の大仏造立(シリーズ権力者と仏教)』(法蔵館、2008年)
  • 佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖『詳説日本史研究』(山川出版社、2017年)「第六章 幕藩体制の確立 2幕藩体制の成立」243頁

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