プロフィール
土佐国の大名・山内一豊の正室。見性院(けんしょういん)。
千代紙は千代の発明とも言われている。
一豊が織田信長に仕官した頃、一豊が名馬が欲しいといえば名馬を購入。それが信長の目の留まるところとなって、旦那の出世のキッカケを作った。
しかし大地震で一人娘を喪ってしまう――
詳細
1.名馬購入
千代は弘治三(1557)年、近江浅井氏の家臣・若宮喜助友興と石川小四郎某の女の間に誕生。
某年父・友興が戦死したのち、母と共に母の姉婿・不破市之丞重純を頼り、重純の養育を受けました。山内一豊に嫁いだ千代は、槍働きを得意とする一豊に対し、文筆や裁縫に秀でていました。
一豊がまだ織田信長の配下で貧しかった頃、安土城で馬揃いがあり、東国から馬喰(ばくろう)の引いてきた馬のなかに、素晴らしい馬がありました。日本語で、馬のあきんどを馬喰・博労(ばくろう)というのも、ハクラク(伯楽)の音転だそうです。
千代は、父が持たせてくれた金子(きんす)を出して、一豊に名馬を購入させました。名馬を持つ一豊は、信長をはじめ皆の目に止まり、一目置かれたという逸話が残ってます。
2.長浜の大地震
信長が死去したあと一豊は、羽柴秀吉に属し功を立てて、天正元年(1573)近江国(滋賀県)で四〇〇石を与えられました。同一三年・千代二九歳の時、長浜に大地震があり、六歳の一人娘・與禰(よね)姫を亡くしました。
悲しみは深く、そのあと城外において捨て子を拾い、これを育てて僧侶とし、のちに京都妙心寺の南北玄興の門に入れました。また一豊と千代の間に與禰以外に子供はできませんでしたが、一豊は生涯側室を置くことはしませんでした。
3.関ヶ原の気転
石田三成が挙兵した時、一豊は家康に属して下野(しもつけ:栃木県)国の小山(おやま)の陣にいました。大坂方では、家康に属した諸将の妻を人質にし、大坂方に味方せよと督促状が送られました。
千代は大坂方の督促状と情報を詳細に記した密書を、笠のひもに編み込んで家臣に持たせ、一豊のもとに届けさせました。一豊はこれを家康に提出。家康は千代の気転を諸将の前で称賛したといいます。かくして一豊は、関ヶ原の戦いでさしたる戦功もないのに土佐(高知県)一国が与えられました。
一豊死後は直ちに出家し、見性院(けんしょういん)と号し、晩年は京都に住んで生涯を終えました。享年六一。お墓は京都妙心寺大通院にあり、大名家としては稀有な夫婦墓で、一豊の墓とほぼ同じ大きさの無縫塔(むほうとう)です。
山内千代 相関図
山内氏
- 夫:一豊。土佐高知藩初代。
- 養子:忠義。一豊の弟・康豊長男。同藩二代。
- 豊信:容堂(ようどう)。同藩一五代。
DVD
「NHK大河ドラマ 功名が辻」は、千代の夫・一豊が信長、秀吉、家康と仕官先を代えたこともあり、戦国時代を俯瞰できます。勿論、ストーリーも充分楽しめ、私はリアルタイムで全話視聴。すっかりお千代ちゃんの大ファンになりました。ストイックでカッコイイ女性に憧れている女性にはピッタリの作品だと思います。
参考文献
- 竹村篤「山内一豊」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)125頁
- 高柳光壽「山内一豊の妻」『日本人名大事典6』(平凡社、1979年)383頁