プロフィール

近江(滋賀県)小谷(おだに)城主。幼名は猿夜叉丸(さるやしゃまる)。
しかし信長が越前へ侵攻すると、同盟関係である越前朝倉氏に与(くみ)。
浅井・朝倉連合軍、姉川にて織田・徳川連合軍に挑む――!
詳細
1.バツイチ再婚

北近江の大名・浅井久政の子である長政は、一五歳で六角氏の重臣平井定武(さだたけ)の娘と結婚。
美人で礼義作法も心得ている申し分のない娘でしたが、長政は六角氏の配下になることを嫌い離縁。永禄三年(1560)一六歳の時に家督を継ぎ、野良田表の戦いで六角氏を破りました。
二三歳の時に織田信長の妹・
お市と結婚。そのころ信長は美濃を平定した実力のある大名だったので、浅井氏もこれで安泰というものでした。
2.運命共同体・朝倉氏
一方、上洛を果たした信長によって第一五代将軍となった足利義昭は、自分は飾りに過ぎないとさとり、信長を倒そうと諸国の大名に密書を送りました。これに越前の
朝倉義景がのりました。
これを知った信長は越前へ侵攻。朝倉氏は同盟関係である浅井氏に助けを求めます。すると長政は朝倉氏に与(くみ)することに決め、敵であった六角氏とも連携。信長にとっては、長政だけでなく六角氏の反逆も想定外でした。
3.姉川の戦い
元亀元年(1570)六月、浅井長政・朝倉義景連合軍一万八〇〇〇VS信長・徳川家康連合軍三万一〇〇〇による姉川の戦いがおこりました。
浅井に助けを求めた朝倉がいざ姉川の戦いが始まると消極的で、浅井が主力となって戦っていました。大変な激戦の末、朝倉・浅井は敗北。しかし信長は浅井長政・朝倉義景の首を取るまでに至りませんでした。
4.石山合戦
同年九月本願寺顕如が信長に蜂起。
信長配下の松永久秀にかつて敗北した三好三人衆(三好長逸・政康、岩成友通)に加え、先月に姉川の戦いで敗北した浅井長政・朝倉義景と手を結び、反信長包囲網を作り上げました。
同年一〇月、浅井・朝倉が本願寺の指示どおり三万の軍を従え、比叡山に陣を敷きました。ここには天台宗総本山・延暦寺(滋賀県)があり、翌元亀二年(1571)一〇月に信長は延暦寺を焼き討ちにし、建物ほか寺宝や古文書類を失い、僧もほとんど殺され犠牲者は三〇〇〇人及んだといいます。
天正元年(1573)八月、信長軍は再び越前に侵攻し、朝倉軍を壊滅させて義景を自害させました。小谷城の浅井氏は完全に孤立し、同月信長軍に包囲され、猛攻をあびました。
5.世にも珍しい肴
同月長政は父久政とともに自害。お市の方と三人の娘は信長のもとに送り届けました。
長女茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室となり、秀吉死後は政権の実権を握りました。次女お初は
京極高次に嫁ぎ、三女のお江(ごう)は
徳川秀忠に嫁いで御台所となりました。
浅井父子が自害した翌年の元旦、岐阜城の信長は酒宴において、馬廻りの将らを前にして黒塗りの箱を取り出しました。
柴田勝家は「いかなる肴でございますか」と聞くと「世にも珍しい肴である」と信長は言って、中のものを取り出しました。一座の客は一瞬はっとしました。綺麗に金銀の箔で彩色してありますが、人間の頭蓋骨で、札がつけられていました[註]。
一、朝倉左京大夫義景、一、浅井下野(しもつけ:久政)、一、浅井備前(長政)
補註
東欧の先達
" ビザンツ帝国にとって、ブルガリアは恐るべき強敵だった。この絵には、ブルガリア王クルムの臣下が、戦死したビザンツ皇帝ニケフォロス1世(在位:802~811年)の頭蓋骨でつくった酒杯を、王に差し出す場面が描かれている。" J.M.ロバーツ著、後藤明 監修『世界の歴史4』118頁(創元社、2003年)
浅井長政 相関図
浅井氏
家臣
同盟関係
その他
参考文献
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「姉川の戦い」94-99頁
- 羽生道英「浅井長政」 『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)160-161頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「浅井長政」 176頁
- 『戦国覇王』戦国大名篇(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)