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戦国人物解説

宣祖(ソンジョ,선조/せんそ)秀吉の朝鮮出兵で都を追われた国王

目次

序文プロフィール詳細:1.初期の善政 2.秀吉の朝鮮侵攻の備え

3.ザ・グレートエスケープ 4.明・朝鮮軍の本領 5.戦後

相関図補註参考文献関連記事

序文

朝鮮王朝の歴代王の呼称には…「祖」「宗」「君」と称号に違いがある。「祖」「宗」はいずれも死後に治績に応じて後継の国王が王に送った廟号(びょうごう)で…「祖」のほうが「宗」よりも徳が高いとされている。六反田豊 監修『朝鮮王朝がわかる!

プロフィール

宣祖,선조
선조/Seonjo

李氏朝鮮王朝 第14代国王。諱(実名)は昖(연,ヨン)。

学問を重視する善政を行っていたが、朝廷内で派閥争いが激化し国政は次第に腐敗。一方、北方から女真が侵入しこれを制圧する。

続いて南方から豊臣秀吉の命で日本軍が朝鮮へ侵攻。首都ソウル陥落前に、柳成龍など少数の供と明の国境まで避難する。

李舜臣率いる朝鮮水軍、郭再祐など義兵、更に明提督李如松らの活躍により、ソウル帰京なるか――!?

享年57(1552-1608)。同い年は郭再祐。毛利輝元脇坂安治金時敏と同世代。

詳細

1.初期の善政

宣祖は、第一一代中宗(チュンジョン,중종)の孫。復興大院岹(しょう)の第三子で、河城君に封ぜられましたが伯父の第一三代明宗(ミョンジョン,명종)には跡継ぎがなく、遺命により第一四代国王に即位。

宣祖は李退渓(りたいけい:朝鮮王朝を代表する朱子学者)、李栗谷(りりっこく:学者,政治家)などの人材を登用。学問を重視する政策をとり、無実の罪で罰せられた者を放免しました。

また『儒先録』『三網行実』など多くの書物を刊行して儒家の発展に寄与。そののち朝廷では、東人(トンイン)と西人(ソイン)とに派閥が分かれ、更に東人は穏健派の南人(ナミン)柳成龍金誠一らと強硬派の北人(プキン)李潑・李山海らに分かれ、次代の王位継承を巡って激しく争いました。

国政は次第に腐敗し、北方から女真が侵入。王は直ちに兵を発してこれを奪回しました。

2.秀吉の朝鮮侵攻の備え

続いて南方より 豊臣秀吉豊臣秀吉明国制圧を企み、対馬の宗義智宋義智景轍玄蘇景轍玄蘇を通して朝鮮に使節の派遣を求めてきました。宣祖は臣下と議論に議論を重ね、金誠一通信使の日本派遣を決定。

また秀吉は朝鮮に明への嚮導(きょうどう:案内)を求めてきました。この頃の宣祖について、明実録に記すところは以下の通り。

"礼部が記します。「朝鮮王李昖は克(よ)く貢ぎ物を修めます。我が漂海の中華の民を帰し、備(つぶさ)に倭情の狡詐(こうさ:ずる賢く嘘つき)を陳べ、嚮導を恥とし、攻撃を防ぎ守ります。宜しく(皇帝が士気を鼓舞する)旌(はた)を示して称えください。」と。万暦帝は勅を賜いてこれを奨し、併せて銀貨を配り与えました。[]”

3.ザ・グレートエスケープ

朝鮮全土_文禄の役
図1:文禄の役 朝鮮全土関係図
国王避難路と日本軍進路

文禄元年(1592)四月、秀吉の命により日本の諸将朝鮮へ侵攻

第一軍の小西行長小西行長らが、釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上。東萊(トンネ)、尚州(サンジュ)、忠州(チュンジュ)を攻め落とし、半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧しました。

これに先立って宣祖四一歳は、大雨の中を都の漢城を捨て平壌へ避難。従う者は宰相柳成龍などの臣下王妃女官など一〇〇人以下。李氏朝鮮王朝建国以来二〇〇年、存立の危機に陥りました。

李朝のそれまでの平和は、庶民や奴婢を厳しく抑圧することで成り立っており、国王不在の漢城の宮殿に火を放ったのは日本軍ではなく、李朝に抑圧されてきたソウルの下層民でした。

行長らの北上は続き、ソウルから平壌近くまで至ると、宣祖は平壌を脱出。行長ら日本軍は平壌城に入り、国王は明の国境・義州(イジュ)に入りました(図1参照)。

4.明・朝鮮軍の本領

慶長の役日本軍進路と主な戦い
図2:慶長の役 日本軍進路図主な戦い

然しながら李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍が奮戦し、郭再祐など義兵も活躍、更に明提督李如松らの来援などで退勢を挽回。

翌文禄二年(1593)一〇月、国王は漢城へ帰京することができました。

一次停戦を経て慶長二年(1597)日本軍再び朝鮮に侵攻。明の経略・楊鎬と提督・麻貴は、再び漢城制圧を企む日本軍の北上を稷山(チクサン)で食い止めました。

李舜臣は鳴梁(ミョンリャン)で藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治らの水軍を撃破。秀吉が死去すると、日本軍帰国の追撃のため李舜臣は明将・陳璘と共に露梁(ノリャン)で島津義弘島津義弘の水軍を撃破。かくして七年にも及ぶ日本軍と戦いに幕を閉じました。

5.戦後

この戦乱の結果、莫大な人命を損失し国土は荒廃。徳川家康徳川家康が江戸幕府を開くと朝鮮との外交を積極的に推進。

約五〇〇〇人の捕虜が送還され、対馬藩の宗義智と景轍玄蘇らの努力もあって、江戸期第一回・朝鮮通信使五〇四名が来日し、江戸城で家康と徳川秀忠徳川秀忠と会見しました。かくして日朝国交は回復して、江戸時代二百余の間に一二回に渡り通信使一行が来日しました。

宣祖お得意の本づくりも再開され、歴代実録をはじめ貴重な文献の再版が大規模に行われました。子は一四男一一女。宣祖死後は第二子の光海君が第一五代国王となりました。享年五七。

宣祖 相関図

朝鮮国

王族

  • 祖父:中宗(一一代国王)
  • 伯父:明宗(一三代国王)
  • 父:復興大院君岹(しょう)
  • 母:河東府大夫人鄭氏(世虎の娘)
  • 長子:臨海君、次子:光海君ほか。

官吏

東アジアの国王

宿敵

補註

文献4第1巻175頁より明実録(「神宗実録」万暦二十年三月戊辰)より当サイトの現代語訳。

参考文献

  1. 伊藤亜人・武田幸男・高崎宗司・大村益夫・吉田光男『新版 韓国 朝鮮を知る事典』(平凡社、2014年)
  2. 木村誠・吉田光男・馬淵貞利・趙景達 編集 『朝鮮人物事典』(大和書房、1995年)
  3. 中村栄孝「宣祖」『アジア歴史事典5巻 シラーソ』(平凡社、1985年)291-292頁
  4. 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
  5. 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
  6. 上垣外憲一『文禄・慶長の役-空虚なる御陣』(講談社、2002年)

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