プロフィール
李氏朝鮮王朝 第14代国王。諱(実名)は昖(연,ヨン)。
学問を重視する善政を行っていたが、朝廷内で派閥争いが激化し国政は次第に腐敗。一方、北方から女真が侵入しこれを制圧する。
続いて南方から豊臣秀吉の命で日本軍が朝鮮へ侵攻。首都ソウル陥落前に、柳成龍など少数の供と明の国境まで避難する。
詳細
1.初期の善政
宣祖は、第一一代中宗(チュンジョン,중종)の孫。復興大院君岹(しょう)の第三子で、河城君に封ぜられましたが伯父の第一三代明宗(ミョンジョン,명종)には跡継ぎがなく、遺命により第一四代国王に即位。
宣祖は李退渓(りたいけい:朝鮮王朝を代表する朱子学者)、李栗谷(りりっこく:学者,政治家)などの人材を登用。学問を重視する政策をとり、無実の罪で罰せられた者を放免しました。
また『儒先録』『三網行実』など多くの書物を刊行して儒家の発展に寄与。そののち朝廷では、東人(トンイン)と西人(ソイン)とに派閥が分かれ、更に東人は穏健派の南人(ナミン)柳成龍・金誠一らと強硬派の北人(プキン)李潑・李山海らに分かれ、次代の王位継承を巡って激しく争いました。
国政は次第に腐敗し、北方から女真が侵入。王は直ちに兵を発してこれを奪回しました。
2.秀吉の朝鮮侵攻の備え
続いて南方より 豊臣秀吉が明国制圧を企み、対馬の宋義智・景轍玄蘇を通して朝鮮に使節の派遣を求めてきました。宣祖は臣下と議論に議論を重ね、金誠一ら通信使の日本派遣を決定。
また秀吉は朝鮮に明への嚮導(きょうどう:案内)を求めてきました。この頃の宣祖について、明実録に記すところは以下の通り。
"礼部が記します。「朝鮮王李昖は克(よ)く貢ぎ物を修めます。我が漂海の中華の民を帰し、備(つぶさ)に倭情の狡詐(こうさ:ずる賢く嘘つき)を陳べ、嚮導を恥とし、攻撃を防ぎ守ります。宜しく(皇帝が士気を鼓舞する)旌(はた)を示して称えください。」と。万暦帝は勅を賜いてこれを奨し、併せて銀貨を配り与えました。[註]”
3.ザ・グレートエスケープ
文禄元年(1592)四月、秀吉の命により日本の諸将が朝鮮へ侵攻。
第一軍の小西行長らが、釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上。東萊(トンネ)、尚州(サンジュ)、忠州(チュンジュ)を攻め落とし、半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧しました。
これに先立って宣祖四一歳は、大雨の中を都の漢城を捨て平壌へ避難。従う者は宰相柳成龍などの臣下、王妃、女官など一〇〇人以下。李氏朝鮮王朝建国以来二〇〇年、存立の危機に陥りました。
李朝のそれまでの平和は、庶民や奴婢を厳しく抑圧することで成り立っており、国王不在の漢城の宮殿に火を放ったのは日本軍ではなく、李朝に抑圧されてきたソウルの下層民でした。
行長らの北上は続き、ソウルから平壌近くまで至ると、宣祖は平壌を脱出。行長ら日本軍は平壌城に入り、国王は明の国境・義州(イジュ)に入りました(図1参照)。
4.明・朝鮮軍の本領
然しながら李舜臣率いる朝鮮水軍が奮戦し、郭再祐など義兵も活躍、更に明提督の李如松らの来援などで退勢を挽回。
翌文禄二年(1593)一〇月、国王は漢城へ帰京することができました。
一次停戦を経て慶長二年(1597)日本軍が再び朝鮮に侵攻。明の経略・楊鎬と提督・麻貴は、再び漢城制圧を企む日本軍の北上を稷山(チクサン)で食い止めました。
李舜臣は鳴梁(ミョンリャン)で藤堂高虎・脇坂安治らの水軍を撃破。秀吉が死去すると、日本軍帰国の追撃のため李舜臣は明将・陳璘と共に露梁(ノリャン)で島津義弘の水軍を撃破。かくして七年にも及ぶ日本軍と戦いに幕を閉じました。
5.戦後
この戦乱の結果、莫大な人命を損失し国土は荒廃。徳川家康が江戸幕府を開くと朝鮮との外交を積極的に推進。
約五〇〇〇人の捕虜が送還され、対馬藩の宗義智と景轍玄蘇らの努力もあって、江戸期第一回・朝鮮通信使五〇四名が来日し、江戸城で家康と徳川秀忠と会見しました。かくして日朝国交は回復して、江戸時代二百余の間に一二回に渡り通信使一行が来日しました。
宣祖お得意の本づくりも再開され、歴代実録をはじめ貴重な文献の再版が大規模に行われました。子は一四男一一女。宣祖死後は第二子の光海君が第一五代国王となりました。享年五七。
宣祖 相関図
朝鮮国
王族
官吏
東アジアの国王
宿敵
補註
文献4第1巻175頁より明実録(「神宗実録」万暦二十年三月戊辰)より当サイトの現代語訳。
参考文献
- 伊藤亜人・武田幸男・高崎宗司・大村益夫・吉田光男『新版 韓国 朝鮮を知る事典』(平凡社、2014年)
- 木村誠・吉田光男・馬淵貞利・趙景達 編集 『朝鮮人物事典』(大和書房、1995年)
- 中村栄孝「宣祖」『アジア歴史事典5巻 シラーソ』(平凡社、1985年)291-292頁
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役-空虚なる御陣』(講談社、2002年)