基本データ
概要
陣容
日本水軍 133隻
朝鮮水軍 13隻
結果
日本水軍:31隻喪失、来島通総戦死。/朝鮮水軍:1隻も喪失なし。
解説
1.一三隻からの再出発
豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)、日本軍が朝鮮へ再侵攻。
全羅左水使・李舜臣は慶尚・全羅・忠清三道をまとめる三道水軍統制使(以下、統制使と呼ぶ)は任命されましたが、全羅右水使・元均が李舜臣を陥れ元均が統制使に就任。
同年七月中旬、統制使・元均が朝鮮水軍を率いて日本水軍に挑みましたが、巨済島漆川梁で敗れて元均は戦死しました。
李舜臣が作り上げた朝鮮水軍もこの一戦でほぼ壊滅。これにより李舜臣は統制使に復帰しますが、手元に残された船は、漆川梁で戦闘中遁走した慶尚右水使・裵楔(ペ・ソル)の一二隻に一隻加えて僅か一三隻。幸いその中に亀甲船がありましたが、大変厳しい局面に立たされました。
2.奇跡の「ミョンリャン」
同年九月、藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明・来島通総ら率いる日本水軍一三三隻が全羅右水営と珍道(チンドン)南部の間の鳴梁(ミョンリャン)海峡に迫ってきました。
鳴梁は、海の鳴き声が二里(朝鮮里 四〇〇メートル)先に聞こえるという激流が摩擦する海峡。
朝鮮水軍にとっても難所である鳴梁。しかし船数が圧倒的に多い日本軍と正面から戦うのは無理だと考えた李舜臣は、東から攻めてくる日本水軍に対して鳴梁海峡西側に兵船を漁船に見せかけて布陣させ、鳴梁海峡に誘い込む作戦に出ました。
海戦の当初、潮流は東から西に向かい、朝鮮水軍にとっては逆流で苦しい戦闘を強いられました。しかし潮流が西から東に代わると、潮の流れに乗った朝鮮水軍の大逆襲。
来島通総は撃たれて、その首は帆柱の上にさらされました。通総の戦死は日本水軍に衝撃を与え、憤激して一度に挑みかかりましたが、玄字(げんじ)・地字銃筒(ちじじゅうとう)で応戦されて、引き続き撃破されて、日本水軍は一斉に退きました。
日本側は兵船三一隻を失い、来島通総戦死の際、その家老たちも多く負傷。藤堂高虎重傷、軍目付の毛利高政は海に落ちましたが救出されました。一隻も喪失しなかった朝鮮水軍の完勝でした。
民衆は右水営の裏山に登り、ことの始終を見守るものの、誰もが朝鮮水軍が敗れると思っていました。しかし戦雲がおさまったあと、海上に浮かんだのは朝鮮水軍のみ。「李使道!李使道!」と李舜臣を称える声が海山にこだましたと言います。この戦いは「奇跡の鳴梁(ミョンリャン)」と呼ばれました。
参考文献
- 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』(岩波書店、2012年)