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文禄・慶長の役

鳴梁(ミョンリャン/めいりょう)海戦 日本水軍133隻に僅か13隻で挑む李舜臣復活劇

目次

慶長の役の流れ基本データ

解説:1.一三隻からの再出発 2.奇跡の「ミョンリャン」

参考文献関連記事

慶長の役の流れ

慶長二年(1597) 慶長三年(1598)
日本軍北上 形勢逆転 日本軍南下 倭城に籠る 8月秀吉死去、続々と帰国 最後の戦い
7月中旬 8月中旬 9月初旬 同中旬 12月下旬 10月初旬 9~10月初旬 11月中旬
漆川梁海戦 南原の戦い 稷山の戦い 鳴梁海戦 蔚山の戦い 泗川の戦い 順天の戦い 露梁海戦

基本データ

鳴梁海戦
年月日 慶長2年(1597)9月16日
場所 全羅道 鳴梁(명량/ミョンリャン)海峡
概要 朝鮮水軍どん底から復活を果たす「奇跡の鳴梁(ミョンリャン)」
対戦軍 兵数 日本水軍 133隻 朝鮮水軍 13隻
大将 藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治 水軍統制使 李舜臣李舜臣
部隊 加藤嘉明加藤嘉明来島通総来島通総・毛利高政ら 蛇渡僉使 金浣(キム・ワン)、順天府使 権俊(クォン・シュン)、慶尚右水使 裵楔(ペ・ソル)ら
結果 31隻喪失、来島通総戦死。 1隻も喪失なし。

解説

1.一三隻からの再出発

慶長の役地日本軍進路
図1:慶長の役 日本軍進路図

豊臣秀吉豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)、日本軍朝鮮へ再侵攻

全羅左水使李舜臣李舜臣は慶尚・全羅・忠清三道をまとめる三道水軍統制使(以下、統制使と呼ぶ)は任命されましたが、全羅右水使・元均が李舜臣を陥れ元均が統制使に就任。

同年七月中旬、統制使・元均が朝鮮水軍を率いて日本水軍に挑みましたが、巨済島漆川梁で敗れて元均は戦死しました。

李舜臣が作り上げた朝鮮水軍もこの一戦でほぼ壊滅。これにより李舜臣は統制使に復帰しますが、手元に残された船は、漆川梁で戦闘中遁走した慶尚右水使・裵楔(ペ・ソル)の一二隻に一隻加えて僅か一三隻。幸いその中に亀甲船がありましたが、大変厳しい局面に立たされました。

2.奇跡の「ミョンリャン」

鳴梁海戦
図2:鳴梁海戦

同年九月、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明来島通総来島通総ら率いる日本水軍一三三隻が全羅右水営と珍道(チンドン)南部の間の鳴梁(ミョンリャン)海峡に迫ってきました。

鳴梁は、海の鳴き声が二里(朝鮮里 四〇〇メートル)先に聞こえるという激流が摩擦する海峡。

朝鮮水軍にとっても難所である鳴梁。しかし船数が圧倒的に多い日本軍と正面から戦うのは無理だと考えた李舜臣は、東から攻めてくる日本水軍に対して鳴梁海峡西側に兵船を漁船に見せかけて布陣させ、鳴梁海峡に誘い込む作戦に出ました。

海戦の当初、潮流は東から西に向かい、朝鮮水軍にとっては逆流で苦しい戦闘を強いられました。しかし潮流が西から東に代わると、潮の流れに乗った朝鮮水軍の大逆襲。

来島通総は撃たれて、その首は帆柱の上にさらされました。通総の戦死は日本水軍に衝撃を与え、憤激して一度に挑みかかりましたが、玄字(げんじ)・地字銃筒(ちじじゅうとう)で応戦されて、引き続き撃破されて、日本水軍は一斉に退きました。

日本側は兵船三十一隻を失い、来島通総戦死の際、その家老たちも多く負傷。藤堂高虎重傷、軍艦・毛利高政は海に落ちましたが救出されました。一隻も喪失しなかった朝鮮水軍の完勝でした。

民衆は右水営の裏山に登り、ことの始終を見守るものの、誰もが朝鮮水軍が敗れると思っていました。しかし戦雲がおさまったあと、海上に浮かんだのは朝鮮水軍のみ。「李使道!李使道!」と李舜臣を称える声が海山にこだましたと言います。この戦いは「奇跡の鳴梁(ミョンリャン)」と呼ばれました。

  

参考文献

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

北島 万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆 (岩波新書) 』(岩波書店、2012年)

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