年表
徳川幕府 | 対馬藩 | 朝鮮国 | |
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家康・秀忠 | 宗義智・景轍玄蘇 | 宣祖・光海君 | |
慶長三年(1598)一一月 | 露梁海峡にて李舜臣と明水軍・陳璘が日本水軍を撃破し、文禄・慶長の役幕を閉じる。 | ||
慶長五年(1600) | - | 二月、宗義智が小西行長らともに朝鮮に和議の書を送る。捕虜百数十人送還。→ | 捕虜百数十人が送還されるが、日本に固く心を閉ざす。 |
〃 | 徳川家康、藤堂高虎に捕らえている姜沆の帰国を促す。 | - | 六月、姜沆が帰国し国王・宣祖に日本情勢を報告。 |
九月 | 関ケ原の戦い。東軍・徳川勝利。→ | 宋義智、西軍につくが所領安堵される。 | - |
慶長六年(1601) | 家康、対馬藩に捕虜送還を指示。→ | 対馬藩、使者に橘智正を任命。→ | 六月、橘智正来朝し捕虜二五〇人が送還される。一二月再び橘智正来朝し、ものすごい粘り強さで講和を求められる。 |
慶長八年(1603) 二月 |
家康が征夷大将軍に就任。→ | 宗義智、将軍家康から正式に通信使派遣の要請を請ける。→ | 捕虜を送還させ、日本情勢を探る必要性から、僧・惟政(ユジョン)らの派遣決定。↓ |
慶長一〇年(1605)三月 | 僧・惟政(ユジョン)らが来日、家康・秀忠と伏見城で謁見。 通信使の派遣、捕虜の送還など合意が成立。 |
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慶長一一年(1606)一月 | 一三九〇名の朝鮮捕虜を送還した上で、対馬藩を通じて朝鮮通信使派遣を要請。→ | 幕府の要請により宗義智の重臣・柳川氏・景轍玄蘇ら訪朝。→ | 柳川氏・玄蘇来朝。朝鮮側から最終講和条件として1.侵略中に国王陵墓を盗堀した犯人の引き渡し、2.日本側から先に国書を送ることを掲示。 |
一一月 | - | 柳川氏・玄蘇、朝鮮側の最終講和条約の2は家康が応じないと判断し、Ⅰ朝鮮国書を偽造。返書としてのⅡ日本国書も偽造。→ | →朝鮮朝廷、Ⅱ偽装された日本国書を受け取り、偽造と薄々気づきながら大目に見てⅢ朝鮮国王の返書を発行。通信使呂祐吉ら派遣を決定。↓ |
慶長十二年(1607) | 四月、板倉勝重が通信使を京の大徳寺で丁重におもてなし。↓ | 三月、宗義智が対馬で通信使を出迎え案内係を務める。京へ← | 一月、通信使・呂祐吉(リョウギル)ら漢城を出発。対馬へ← |
六月 | 東海道を通り通信使は案内役・宋義智と共に江戸へ。↓ | 柳川氏・玄蘇は辻褄を合わす為に呂祐吉が携えたⅢ朝鮮国王の返書を偽造。下記会見当日すり替え。↓ | - |
〃 | 国交回復・江戸期 第一回朝鮮通信使 通信使・呂祐吉ら五〇四名、江戸城で家康・秀忠と会見。 |
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〃 | 全国から捕虜一四八〇名を集めさせる。 | → | 捕虜一四八〇名とともに通信使、帰国。 |
慶長一五年(1608) | 琉球尚寧王、家康、江戸で将軍秀忠に謁見。 | - | 三月:宣祖死去。光海君即位。 |
慶長一四年(1609)五月 | 己酉(きゆう)約条締結 宋氏と朝鮮とが結んだ条約。日本からの使いは将軍と宋氏に限られ、貿易船は二〇隻に限られた。 |
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慶長一六年(1611) | 景轍玄蘇、対馬にて死去。 | ||
元和元年(1615) | 五月、大坂夏の陣。 | 正月、宗義智死去。 | |
元和二年(1615)四月 | 家康死去。 | ||
元和三年(1617)七月 | 第二回・朝鮮通信使来日 通信使呉允謙ら四二八名が来日し大坂平定を賀す。江戸時代二百余の間、一二回に渡り通信使一行が来日した。 |
解説
七年にも及ぶ文禄・慶長の役終戦した直後から、対馬の宗義智と外交僧の景轍玄蘇が朝鮮に和議を求めます。対馬は朝鮮との貿易が生活の糧になっていたからです。
また、豊臣秀吉の強圧外交から近隣との安全第一に切り替えた徳川家康は、将軍になると本格的に朝鮮との国交回復を目指しました。
義智と玄蘇、家康の努力により、終戦から僅か一〇年で第一回朝鮮通信使が来日。江戸時代二百余の間に一二回に渡り通信使一行が来日しました。
その過程について、できる限りわかりやくまとめたのが上の年表。様々な苦労あり複雑を極めること、視覚的にもおわかりいただけるかと思います。
表の緑で示した宋氏と朝鮮とが締結した己酉(きゆう)約条。貿易船は二〇隻に限らるなど以前より貿易を制限される内容ですが、文禄・慶長の役後のことですから許容範囲と言えるでしょう。