プロフィール
日本の朝鮮再出兵(慶長の役)に際し、総督・邢玠(けいかい)の次席として朝鮮に渡海。
朝鮮・明連合軍は、漆川梁海戦や南原の戦い等、日本軍に連戦連敗。平壌にいた楊鎬は、事態の深刻化を受けて南下。
日本軍のソウル侵入を稷山(チクサン)で阻止するよう指令し、明軍が北上してきた黒田長政・毛利秀元ら軍のソウル侵入を阻止した。
次の攻撃目標を加藤清正に定めると、蔚山倭城を六万の大軍で包囲する――!
(生?~没1629年)
詳細
1.超エリート官僚
楊鎬は、中国河南省・商丘の人で万暦八年(1580)の進士(しんし)。進士とは、科挙(官吏登用試験)の合格者のことです。
競争が激しく合格するのが極めて困難だったので、進士となることは人生最大の幸福とされ、また社会的・政治的に特権を持ちました。そんな楊鎬は、武官ではなく文官。超エリート官僚なのでした。
文禄元年(1592)四月、豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まり、朝鮮から援軍を要請された明は、提督・李如松率いる四万の部隊を朝鮮に派遣し、日本軍と戦いに一定の成果を挙げました。
2.経略として朝鮮へ
また「能(よ)く倭に説く者」として外交家の沈惟敬も朝鮮に派遣。小西行長と日明和議交渉を進め、日本軍との一時休戦までに持ち込みました。
しかし秀吉が明に突き付けた、明の皇女を日本の天皇の后にするなどの「和議七ヶ条」は、到底飲み込める内容ではなかったので結局和議交渉は破たん。慶長二年(1597)元年には日本軍再出兵が決定されました。
明は朝鮮の日本軍討伐のため、六部左侍郎だった邢玠(けいかい)を経略禦倭軍務総督、都察院(とさついん)右僉都御史だった楊鎬を経略(朝鮮軍務経理)、五軍都督府の都督だった麻貴(まき)を提督禦倭総兵官に任命し、彼らを朝鮮へ派遣しました。
なお明の政治は、文官統制(シビリアン‐コントロール)であったため、文官である経略邢玠と楊鎬が武官トップ提督麻貴より上官となります。
3.平壌より南下す
明軍は朝鮮に渡海し、朝鮮軍と共に再び日本軍と戦うものの、元均率いる朝鮮水軍が漆川梁(チルチョンリャン)で日本水軍に大敗。
陸では明・朝鮮連合軍が死守していた南原城が落とされて、日本軍による大量殺戮と鼻切りを行われました。
経略・楊鎬はこの頃、平壌にいましたが事態の深刻化を受けソウルに南下。
提督・麻貴がソウルを放棄する計画を知ると楊鎬は、咎(とが)め、麻貴と作戦を定め、密かに騎士の精勇を選び忠清道・稷山(チクサン)で日本軍を迎撃することにしました。
4.稷山の戦い
かくして慶長二年(1597)九月七日、忠清道を目指し北上していた黒田長政の先鋒隊と明軍が稷山で衝突。
後続の長政軍と毛利秀元軍が救援にかけつけ激戦となり、両軍多数の死者を出し両軍とも引き上げました。
しかしこの戦いによって明軍は日本軍の北上をくい止め、首都ソウル・漢城侵入を阻止したのでした。
稷山の戦いの一〇日後、李舜臣が朝鮮水軍を率いて鳴梁海峡で、藤堂高虎・脇坂安治らの水軍を撃破。 明・朝鮮軍が本領を発揮し始めました。
4.次の攻撃目標・加藤清正
稷山の戦いから二か月後の一一月、加藤清正・浅野幸長らは、蔚山の島山に倭城普請に取りかかりました。
邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは、日本軍の象徴的な存在・清正。
同年一二月八日、全体の指揮を執ることになった楊鎬と麻貴は、兵を率いて蔚山倭城に迫り、これに都元帥・権慄も朝鮮軍を率いて加わりました。
楊鎬は、日本兵の恰好をさせた降倭を蔚山倭城に送り込み、日本軍の配置についての情報収集を行いました。
5.蔚山の戦い
同月二三日、明・朝鮮連合軍六万が日本軍二千余が籠る日本軍二千余が籠る蔚山倭城を包囲。
城内の日本軍は食糧もなく、敵に水道も断たれたため、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。
二七日、楊鎬と麻貴は城内から脱出した朝鮮人四名から、城中は水も米もなく困窮している城内の様子を聴きました。しかしこちらも飢えと寒さに苦しんでいたため、楊鎬は降伏を勧告する文書を作製。これを降倭・沙也可に持たせました。
沙也可は騎馬で蔚山の近くまで行き、日本語で名乗り、城を明け渡し退散すれば軍兵の命は助かると清正に勧告。和議に乗ろうとした清正でしたが、年明け正月二日に毛利秀元・黒田長政らの救援軍が明・朝鮮連合軍の背後に迫って来ました。
背後をつかれた楊鎬は五日に囲みを解き、全軍に撤退命令を出し、一〇日余続いた蔚山の戦いは終わりました。
6.更迭
邢玠はこの戦いで麻貴は用兵に苦心し、楊鎬は日本の銃撃をものともせず兵を指揮し、清正ら日本軍に大打撃を与えたと皇帝に上奏しました。
しかしその後、邢玠の幕僚・丁応泰が、それは事実の隠ぺいであり、多数の戦死者を出したと皇帝に上奏。これは反派閥の楊鎬を貶める丁応泰の陰謀で、皇帝は丁応泰の報告を聞いて激怒し楊鎬の任務を解きました。
この時のことを柳成龍は著作の『懲毖録』の中でこう記しています。
「国王(宣祖)は(楊)鎬は経理(指揮官)たちの中でも賊の討伐につとめたということで、(朝鮮)左議政(副首相)李元翼(イ・ウォンイク)をすぐに派遣し、救済のための上奏文を持たせて(明国)の京帥に馳せつけさせた。八月、楊鎬が去った。国王は弘済院の東まで行って送り、涙を流して別れを惜しまれた。」
また丁応泰の報告には、朝鮮は千人程の戦死者を出して行動が軽はずみで敗北した等、朝鮮に対しての事柄もありました。朝鮮側はこれを弁明しようとしましたが果たせず、加えて朝鮮内部の政敵の弾劾を受けて領議政柳成龍も辞任しました。
6.最期
万暦四六年(1618)、女真族の長・ヌルハチの清軍が対明攻撃を決意し、遼寧省・撫順(ぶじゅん)を陥れると、楊鎬は再び起用され、六部・兵部右侍郎となりました。
翌年、清の本拠地を撃破する為に明兵四七万を率いて、劉綖(りゅうてい)と共に出陣しましたが、大雪のため四万五千以上の兵を失い明軍は大敗(サルフの戦い)。その責任を問われて楊鎬は死刑に処せられました。
明は朝鮮の日本軍にかかずらっていたこともあり、早くから新興勢力・女真族の勢力を抑え込むことができませんでした。
明は間もなく滅亡し、ヌルハチが太祖となって清を建国しました。
楊鎬 相関図
明国
朝鮮国
ライバル
参考文献
- 京大東洋史辞典編纂会 編『新編 東洋史辞典』(東京創元社、1980年)
- 岸本美緒・、宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』(中央公論社、1998年)
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』(講談社、2002年)
- 柳成竜 (著)、 朴鐘鳴 (翻訳)『懲毖録』(平凡社、1979年)
- 北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』(吉川弘文館、2007年)