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戦国人物解説

柳成龍(ユ・ソンリョン,류성룡/りゅう-せいりゅう)筆で日本の武将と戦う朝鮮宰相

目次

プロフィール詳細:1.経歴 2.通信使の帰国

3.李舜臣を採用 4.国王の都落ち 5.外交で戦う

6.飢民救済、防備強化 7.蔚山の戦い後の波紋

8.『懲毖録』をまとめる相関図参考文献関連記事

プロフィール

柳成龍,류성룡
류성룡/Yu Seongryong

朝鮮王朝・宰相(領議政)。政治家、学者。号は西厓(ソエ)。

剣ではなく筆で文禄・慶長の役を戦い、李舜臣権慄など名将を登用。この戦いを詳細に記したルポ『懲毖録』の作者でもある。

文禄元年四月、日本軍朝鮮へ侵攻。第一軍の小西行長らが北上し、首都ソウルに迫ると、国王宣祖の都落ちに随行。

一方で軍の兵糧調達や、義兵との連合工作などに奔走。提督李如松と共に行長籠る平壌城奪回なるか――!

享年66(1542-1607)。

同い年は徳川家康九鬼嘉隆。李舜臣より3つ年上、秀吉より6つ年下。

子孫は、俳優で歌手のリュ・シウォン(류시원)さん。

詳細

1.経歴

柳成龍は、慶尚道(キョンサンド)で監司(従二品)柳仲郢の子として生まれました。

六歳で『大学』を学んだと言われ、早くから朝鮮王朝を代表する朱子学者李退渓(イテゲ)に学び、明宗二一年(1566)二五歳で文科に及第し、承文院権知副正字に就任。

宣祖二年、賀節使の書状官として北京に赴きました。のち弘文館副提学、司諫院大司院、承政院都承旨、司憲府大司憲(従二品)などを歴任、四九歳の時に左議政(正一品/副首相)に就任しました。

しかしこのエリート官僚を待っていたのは、文禄・慶長の役すなわち七年にも及ぶ日本軍との戦いでした。

2.通信使の帰国

開戦前。島津氏を服属させ、九州を平定した豊臣秀吉豊臣秀吉の次の狙いはアジア―明国制圧。秀吉は、明国の通り道となる朝鮮に国王宣祖の参内を二度三度と要求しました。

朝廷は議論に議論を重ねて、秀吉の天下統一の祝賀の為ということで、通信使に正使・黄允吉、副使に金誠一を選任。楽隊まで加えて二百人の大一行は、首都・漢城(ソウル)を出発して来日しました。

秀吉との会見を済ませ帰国した正使・黄允吉は、御前会議において兵乱が必ず起きると断言。しかし副使・金誠一はその可能性はないと正反対のことを言いました。

当時の朝鮮の官僚は、東人派と西人派に分かれ党争が激化。東人派の柳成龍は、西人派の黄允吉の報告を退け、東人派に属する金誠一の報告を採用しました。

3.李舜臣を採用

文禄の役 日本軍朝鮮侵攻図
図1:文禄の役 朝鮮全土関係図
国王避難路と日本軍進路

しかし本当に日本軍が侵攻してくるかもしれない――。

危機感を持った柳成龍は、全羅左道(チョンラジャド)水軍節度使(全羅左水使)に、昔からの知人であった李舜臣李舜臣四七歳を抜擢。

これは県監から階級七段跳びの異例の人事でした。全羅左水使に任命された李舜臣は、朝鮮南海岸の全羅左水営にて、間もなく上陸してくるという日本軍を海で撃退すべく、兵員を編成、訓練を行い、海流や潮の干満、日本のことなどを調べ上げました。

その一年後の文禄元年(1592)四月一三日、ついに日本軍朝鮮へ侵攻

日本軍は釜山から破竹の勢いで北上、朝鮮軍が陸上で次々とに敗れる中、ただ李舜臣率いる朝鮮水軍だけが日本水軍を連戦撃破しました。

4.国王の都落ち

一方の柳成龍は、小西行長小西行長ら日本軍が朝鮮に上陸すると、兵曹判書(軍務の事務長官)と都体察使(全国の諸将を監督する長官)を兼任。

第一軍の小西行長・宗義智宗義智らは、僅か半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧。これに先立ち、国王・宣祖は雨の中、平壌へに向かって避難。柳成龍はこれに随行しました。

この時の様子は、柳成龍本人の晩年の著作『懲毖録』(ちょうひろく)に詳しいです。

「雨は注ぐように降っていた。田の間からこれを見ていた人が痛哭しながら「国家が私たちを棄てて去る。私たちは何を頼りに生きてゆこう」と声をあげた(懲毖録)」

その途中、柳成龍は領議政(ヨンイジョン,正一品/総理大臣)に昇進。しかし先の金誠一の報告を採用したことを西人派に咎められ、その日に領議政と兼職を罷免され朝廷を去りました。

それだけ朝廷は大混乱に陥っていました。しかしその翌月に地位を回復、豊原府院君(功臣統率,正一品)に任命されました。行長らは平壌近くまで北上したので、国王は平壌を脱出して明の国境・義州(イジュ)に入りました(1参照)。

5.外交で戦う

文禄の役 終盤戦
図2:文禄の役 終盤戦

朝廷はに援軍を要請。このころ柳成龍は「痔病のために苦しみが甚だしく、臥せたまま起きることができなかった。(懲毖録)」

それでも病を押して、明軍の兵糧調達や、義兵との連合工作などに奔走しました。

かくして同年七月、明将の祖承訓が兵五千を率いて平壌城を攻めますが、日本軍の銃撃を浴びて敗北。朝鮮は期待を裏切られましたが、明もまた想定外の結末でした。

翌年一月八日、提督李如松が四万の明兵を率いて平壌城を包囲して、日本軍一万を撃破。小西行長は平壌からソウルへ逃走しました。

この勢いに乗ったは李如松は、南下して首都ソウル奪還を目指しましたが、碧蹄館小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂らと戦って敗北。柳成龍は再度進撃するよう、李如松に申し願いましたが、李如松は戦意喪失し再起不能に。

一方、李如松南下に呼応して全羅巡察使権慄が南から北上。同二月一二日、権慄率いる朝鮮軍一万が、幸州山城で首都ソウルから出陣してきた宇喜多秀家宇喜多秀家ら三万の日本軍を撃退しました。

6.飢民救済、防備強化

一方、柳成龍は飢民の救済にも尽力。慶尚道の金誠一が柳成龍に「全羅道の穀物を放出して飢民を救済したいが全羅道の役人が承知しない」と文で急を告げると、柳成龍は全羅道に馳せ下って自ら南原などの倉を開きました。然しながら、同四月一八日に日本軍がソウル撤退したころ、とうとう病に附してしました。

日本との一時休戦時。水軍将の元均が李舜臣を陥れ、職を奪って、李舜臣は慶長二年、権慄の元で白衣従軍(一兵卒)として過ごしていました。李舜臣を推す東人派の柳成龍が、元均を押す西人派多数に敗れてしまったことも起因していました。

その様な中、柳成龍は京畿・黄海・忠清・慶尚四道都体察使(戦乱の時、王に代わってその地方に赴き、軍務一般を管掌。)として、防備を調べまた防備を固めさせました。

日本軍再び侵攻すると、朝鮮軍は陸も海も次々に敗れました。水軍統制使に復帰した李舜臣は、絶望的な状況の中、鳴梁(ミョンリャン)海峡に日本水軍をおびきよせ、撃破しました。

7.蔚山の戦い後の波紋

慶長の役日本軍進路と主な戦い
図3:慶長の役 日本軍進路図主な戦い

陸上では、加藤清正加藤清正が籠る蔚山倭城を明・連合軍が囲み、水道を断ち、清正を苦しめました。

明は、この戦いで清正ら日本軍に大打撃を与えたと皇帝に上奏しました。その後、明の幕僚・丁応泰が、それは事実の隠ぺいであり、多数の戦死者を出したと皇帝に上奏。

これは反派閥の楊鎬を貶める丁応泰の陰謀で、皇帝は丁応泰の報告を聞いて激怒し楊鎬の任務を解きました。

また丁応泰の報告には、朝鮮は千人程の戦死者を出して行動が軽はずみで敗北した等、朝鮮に対しての事柄もありました。

朝鮮側はこれを弁明しようとしましたが果たせず、加えて朝鮮内部の政敵の弾劾を受けて領議政・柳成龍は辞任。柳成龍は日本軍との最後の戦いを李舜臣に託しました。

8.『懲毖録』をまとめる

その一か月後、李舜臣が露梁(ノリャン)で島津義弘島津義弘らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ日本軍との長い戦いの幕が閉じました。しかしこの戦いで李舜臣は戦死。

柳成龍は隠棲先で、朝鮮の役の経緯を覚書き風に『懲毖録』(ちょうひろく)にまとめました。客観的事実と柳成龍本人の正直な気持ちが書かれており、当頁でも『懲毖録』からいくつか抜粋。彼の知性、謙虚さ、誠実さが余す所なく伝わってきます。享年六六

柳成龍 相関図

朝鮮国

明国

ライバル

参考文献

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柳成龍イラストwith李舜臣・郭再祐