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戦国武将解説

沙也可(さやか)

プロフィール

沙也可
김충선
Sayaka

朝鮮王朝 降倭領将。

朝鮮名・金忠善(キム・チュンソン)。

文禄元年(1592)四月、豊臣秀吉の命により日本軍朝鮮へ侵攻すると、加藤清正隊の先鋒将として従軍。しかし秀吉の出兵に大儀なしとして投降。

以後、朝鮮軍として活躍する。慶長の役では鍋島直茂らと戦い、他の降倭らと共に朝鮮人捕虜一〇〇名を奪回。

また、蔚山の戦いでは、明の経略楊鎬の命を受けて騎馬で蔚山の近くまで行き、日本語で名乗って清正に降伏を勧告した。

戦後も国境警備や反乱の平定、女真族との戦いなど功を立てて活躍し最終的には――!

享年72(生1571-没1642)。宇喜多秀家より一つ年上、清正より九つ年下。

詳細

1.渡海後間もなく投降

文禄の役 朝鮮全土関係図
図1:文禄の役 朝鮮全土関係図
清正軍の沙也可は緒戦で朝鮮軍に投降。

沙也可は出身不明の日本人ですが、北島万次氏『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書)』によると、豊臣秀吉豊臣秀吉の九州征伐の際、熊本に囚われの身となった阿蘇宮越後守=阿蘇大宮司惟光=(朝鮮側の記録にある)元清正家臣・岡本越後守と同一人物だと推測されます。

文禄元年(1592)四月十三日、豊臣秀吉豊臣秀吉の命により日本軍朝鮮へ侵攻

第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智が釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上しました。

岡本越後守とされる清正家臣・沙也可(二二歳)は、第二軍の加藤清正加藤清正(三一歳)の先鋒将として従軍。

清正は、慶尚道・慶州(キョンジュ)に兵を進め、ここにある朝鮮第一の大寺・仏国寺の伽藍を焼き払いました。

この頃に沙也可は、朝鮮の風俗・中華万物が盛んなことを慕い、秀吉の出兵に大儀なしとし、所領の兵三千を以て、慶尚兵使臣・朴晋(パクジン)に帰付しました。朴晋は飛撃震天雷を駆使してのちに慶尚道を回復した名将。

そして沙也可と清正とは、敵味方に分かれて運命の再会を果たします。

2.朝鮮人捕虜一〇〇名を奪回す

慶長の役地図
図2:慶長の役 日本軍進路図_右軍

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。

これにより再び戦争の火蓋は切られ、緒戦は日本軍優勢でしたが、同年九月七日に明軍が経略楊鎬の指示で稷山(チクサン)で日本軍ソウル再侵入を食い止めました。

同月一七日には李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍が鳴梁海峡で日本水軍を撃破。この流れに乗って、文禄の役で朝鮮側に投降した沙也可が再び登場します。

同年一一月、鍋島直茂鍋島直茂ら日本軍約一万が慶尚南道雲峰から咸陽を経て山陰・三嘉に南下。

この報を受けて、前慶尚右兵使・金応瑞(キム・ウンソ)は、朝鮮兵を降倭を分道して進軍。直茂ら日本軍が宜寧から鼎津を渡ろうとした時、明軍も到着し日本軍を襲撃。

日本軍は一時敗退しましたが、逆襲したため多くの降倭含む朝鮮軍と明軍が戦死。しかし朝鮮・明軍は日本軍の首を七〇余級ほど取りました。

この時に降倭の中で最も活躍した者に、僉知(正五品)沙古汝武(さくえもん)・同知(従二品)要知其(よしち)・僉知沙也可(金忠善)・念之(ねんし)の名があり、彼らは朝鮮人捕虜一〇〇名ほどを奪回しました。

3.蔚山の戦い、始まる

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図3:倭城分布図_慶尚道南東海岸

同年十一月より加藤清正加藤清正浅野幸長浅野幸長らは、慶尚道・蔚山(ウルサン)に倭城の築城工事をスタートさせました。

明の邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは、日本軍のシンボリックな存在・清正。これに都元帥・権慄も朝鮮軍を率いて加わり同年十二月二三日、明・朝鮮連合軍六万の大軍が日本軍二千余が籠る普請半ばの蔚山倭城を囲みました

明・朝鮮連合軍に水道を立たれた城中は水も米もなく困窮し、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出しました。

4.清正に降伏勧告す

蔚山の戦い
図4:蔚山の戦い
明・朝鮮連合軍、城を包囲し外廓を突破

楊鎬は清正に降伏を勧告する文書を作製し、これを沙也可(岡本越後守)に持たせました。

楊鎬の命を受けて沙也可は、宇喜多秀家宇喜多秀家の元家臣・田原七左衛門と共に騎馬で蔚山の近くまで行き、日本語で名乗り、城を明け渡し退散すれば軍兵の命は助かると清正に勧告しました。

絶体絶命の清正は和議に乗ろうとしましたが、年明け正月二日に毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。

これにより五日、楊鎬は全軍に撤退命令を出して十日余続いた戦いはついに終了。しかし蔚山の戦いは朝鮮在陣の日本軍に衝撃を与え、これを境に一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。

同年(慶長三年)八月には秀吉が死去。日本軍の帰国が始まると、日本軍追撃戦として同年十一月に朝鮮水軍の李舜臣と明水軍の陳璘が、露梁(ノリャン)で島津義弘・立花宗茂立花宗茂らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ朝鮮の役はようやく幕を閉じました。

5.戦後

戦後も沙也可は、国境警備や反乱の平定、女真族との戦いなどの功績により、正憲大夫(正二品)にまでなり、国王から表彰されました。

子孫の一族は祖先からの儒教精神を守りながら、今日も慶尚道大邱(テグ)近郊ののどかな農村・友鹿洞(ウロルクドン)に住んでいます。

日本に連行された捕虜は二万から三万ともいわれ、また日本から朝鮮に投降・帰化した人も数千にのぼります。

その最も代表的な降倭が沙也可ですが、真の侍になる為にはいっぺん侍の身分を捨てなければならないと思わせるほどの勇敢な武将です。

沙也可 相関図

宿敵

豊臣秀吉豊臣秀吉

文禄の役

元主君:加藤清正加藤清正

慶長の役

慶尚南道日本軍襲撃 ライバル:鍋島直茂鍋島直茂

蔚山の戦い味方:明経略 楊鎬・都元帥 権慄ら/ライバル:加藤清正浅野幸長浅野幸長

朝鮮国

王室:宣祖光海君/朝廷:柳成龍金誠一/陸軍:権慄金時敏・沙也可

水軍:李舜臣李舜臣元均/義兵将:郭再祐/学者:姜沆

明国

万暦帝李如松沈惟敬楊鎬陳璘

  

関連トピック

沙也可イラスト:リアル農楽

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

詳細事項

村上水軍とは 前編後編日朝国交回復年表

参考文献

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

崔 官『文禄・慶長の役〔壬辰・丁酉倭乱〕文学に刻まれた戦争 (講談社選書メチエ) 』(講談社、1994年)