プロフィール
朝鮮王朝 降倭領将。朝鮮名・金忠善(キム・チュンソン,김충선)。
文禄元年(1592)四月、豊臣秀吉の命により日本軍が朝鮮へ侵攻すると、加藤清正隊の先鋒将として従軍。しかし秀吉の出兵に大義なしとして投降。
以後、朝鮮軍として活躍。慶長の役では鍋島直茂らと戦い、他の降倭らと共に朝鮮人捕虜一〇〇名を奪回。
詳細
1.名将・朴晋に従う
沙也可は出身不明の日本人ですが、北島万次氏[文献1]によると、豊臣秀吉の九州征伐の際、熊本に囚われの身となった阿蘇宮越後守=阿蘇大宮司惟光=(朝鮮側の記録にある)元加藤清正家臣の岡本越後守と同一人物だと推測されます。
文禄元年(1592)四月一三日、秀吉の命により日本軍が朝鮮へ侵攻。
第一軍の小西行長・宗義智が釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上しました。
岡本越後守とされる沙也可二二歳は、第二軍の加藤清正三一歳の先鋒将として従軍。
清正は慶尚道・慶州(キョンジュ)に兵を進め、ここにある朝鮮第一の大寺・仏国寺の伽藍を焼き払いました。
この頃に沙也可は、朝鮮の風俗・中華万物が盛んなことを慕い、秀吉の出兵に大義なしとし、所領の兵三千を以て慶尚兵使臣・朴晋(パクジン,박진)に従いました。朴晋は飛撃震天雷を駆使してのちに慶尚道を回復した名将でした。
2.朝鮮人捕虜奪回
慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。
再び戦争の火蓋は切られ、緒戦は日本軍優勢でしたが、同年九月七日に明軍が経略・楊鎬の指示で稷山で日本軍のソウル再侵入を阻止。
同月一七日には李舜臣率いる朝鮮水軍が鳴梁海峡で日本水軍を撃破しました。この流れに乗って、文禄の役で朝鮮側に投降した沙也可が再び登場します。
同年一一月、鍋島直茂ら日本軍約一万が慶尚南道雲峰から咸陽を経て山陰・三嘉に南下。
この報を受けて前慶尚右兵使・金応瑞(キム・ウンソ)は、朝鮮兵と降倭を分道して進軍。直茂ら日本軍が宜寧から鼎津を渡ろうとした時、明軍も到着し日本軍を襲撃。
日本軍は一時敗退しましたが逆襲したため、多くの降倭含む朝鮮軍と明軍が戦死。しかし朝鮮・明軍は日本軍の首を七〇余級ほど取りました。
この時に降倭の中で最も活躍した者に、僉知(正五品)沙古汝武(さくえもん)・同知(従二品)要知其(よしち)・僉知沙也可(金忠善)・念之(ねんし)の名があり、彼らは朝鮮人捕虜一〇〇名ほどを奪回しました。
3.蔚山の戦い、始まる
同年一一月より加藤清正・浅野幸長らは、慶尚道・蔚山(ウルサン)に倭城の築城工事を開始しました。
明の邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは、日本軍のシンボリックな存在・清正。これに都元帥・権慄も朝鮮軍を率いて加わり同年一二月二三日、明・朝鮮連合軍六万の大軍が日本軍二千余が籠る普請半ばの蔚山倭城を囲みました。
明・朝鮮連合軍に水道を立たれた城中は水も米もなく困窮し、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出しました。
4.清正に降伏勧告
楊鎬は清正に降伏を勧告する文書を作製し、これを沙也可(岡本越後守)に持たせました。
楊鎬の命を受けて沙也可は、宇喜多秀家の元家臣・田原七左衛門と共に騎馬で蔚山の近くまで行き、日本語で名乗り、城を明け渡し退散すれば軍兵の命は助かると清正に勧告しました。
絶体絶命の清正は和議に乗ろうとしましたが、年明け正月二日に毛利秀元・黒田長政・鍋島直茂ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。
これにより五日、楊鎬は全軍に撤退命令を出して一〇日余続いた戦いはついに終了。しかし蔚山の戦いは朝鮮在陣の日本軍に衝撃を与え、これを境に一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。
同年(慶長三年)八月には秀吉が死去。日本軍の帰国が始まると、日本軍追撃戦として同年一一月に朝鮮水軍の李舜臣と明水軍の陳璘が、露梁で島津義弘らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ朝鮮の役はようやく幕を閉じました。
5.戦後
戦後も沙也可は国境警備や反乱の平定、女真族との戦いなどの功績により、国王から正二品正憲大夫(チョンワンテブ,정헌대부)の称号を与えられ表彰されました。
子孫の一族は祖先からの儒教精神を守りながら、今日も慶尚道大邱(テグ)近郊ののどかな農村・友鹿洞(ウロルクドン)に住んでいます。
日本に連行された捕虜は二万から三万ともいわれ、また日本から朝鮮に投降・帰化した人も数千にのぼります。その最も代表的な降倭が沙也可ですが、侍を辞めることで誰よりも侍らしく生きたように見えます。
沙也可 相関図
味方
ライバル
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 崔官『文禄・慶長の役〔壬辰・丁酉倭乱〕文学に刻まれた戦争』(講談社、1994年)
- 北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』(吉川弘文館、2007年)