党争のはじまり
朝鮮王朝中期に勲旧派(中央貴族層の既成官僚)が士林派(在地両班層の新進官僚)を士禍と呼ばれる弾圧の後、士林派が1565年に政権を掌握しましたが、1565年に士林派は東人と西人に分裂しました。
表
西暦 | 国王 | 朝廷の党争 | |||
---|---|---|---|---|---|
1565 | 第13代 明宗 | 東人(동인,トンイン)/改革派 | 西人(서인,ソイン)/保守派 | ||
1575 | 第14代 宣祖 | 西人の対応を巡って分裂 | 勢力を失う | ||
1591-98 文禄・慶長の役 |
南人(남인,ナミン)/穏健派 政権担当/柳成龍・金誠一 | 北人(북인,プギン)/強硬派 | |||
1600 | 失脚 | 政権奪取 | |||
1608 | 第15代 光海君 | 大北/光海君擁立派 | 小北/反光海君派 | ||
1623 | 第16代 仁祖 | 勢力を失う | 光海君を廃し西人政権奪取 |
※東人、西人、南人、北人の呼称は、各派の所在地が東、西、南、北に集中していたことから生じました。
解説
文禄・慶長の役の七年間、朝鮮朝廷は対外的にだけでなく内でも党争という名の大戦争が起こっていました。
とってもドロッティなので、週刊誌の記事を読むノリで上の表を頭に入れてもらえれば、当時の朝鮮朝廷のことは意外にすんなり理解できます。下記に具体例を挙げましょう。
李舜臣の場合
李舜臣は、東人で左議政の柳成龍によって異例の階級七段跳びで水軍司令官(全羅左水使)に任命されて、日本水軍を連戦撃破。
しかしその後、現・左議政で西人の尹斗寿(ユ・ドウス)と水軍将の元均に陥れられ、一時停戦時を白衣将軍(一兵卒)として過ごしました。
慶長の役が始まり元均が日本水軍に敗退すると、現・南人で領議政の柳成龍によって水軍最高司令官(統制使)に任命され、再び表舞台に立ちました。
金誠一の場合
戦争が始まる前に来日した通信副使で東人の金誠一。帰国後、西人で通信正使の黄允吉(ホワン・ユンギル)が宣祖の前で「日本軍の出兵はある!」と言ったので自分は「ない!」と逆のことを言いました。
文禄の役が始まると、重い十字架を背負った金誠一は郭再祐を助け、彼と共に義兵を募り活躍しました。
光海君の場合
宣祖末期、王位継承を巡って南人が破れて北人は大小に分かれ、大北は光海君を、小北は光海君の異母弟の永昌大君を支持。これにより永昌大君は死罪、その他光海君の親類・縁者等に多くの血が流れました。
即位した光海君は隣国の明と女真族の争いに心を砕き、この機を利用して、政権から久しくと遠ざかっていた西人が政権奪取に向けて動き出すのでした…
関連トピック
文禄・慶長の役
相関図
概要
地図
東アジア各国関係図/朝鮮八道色分け地図/文禄の役 日本軍進路
年表
朝鮮国
朝鮮の官制その1 京官/その2 外官-陸軍・水軍、地方行政/朝鮮王朝の党争
明国
日本国
文禄年間 全国の諸大名配置図:九州/中国・四国/近畿/東海・北陸/東日本
戦後
朝鮮国
王室:宣祖・光海君/朝廷:柳成龍・金誠一/陸軍:権慄・金時敏・沙也可
明国
参考文献
伊藤亜人, 武田幸男, 高崎宗司, 大村益夫, 吉田光男『新版 韓国 朝鮮を知る事典 』(平凡社、2014年)