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文禄・慶長の役

朝鮮王朝 政治派閥 党争 東人・西人の趨勢

目次

序文党争年表文禄・慶長の役における派閥

解説朝鮮王朝参考文献関連記事

序文

韓国において、漢字推進派=漢字を使わなくちゃいけないという学者と、ハングル専用の学者というのが、ものすごい闘いを、死闘と言ってもいいくらいの闘いを、何十年もずっとくり広げていて、時代によってどちらの勢力が強いかという… 小倉紀藏_日本漢字学会 編『漢字学ことはじめ

党争年表

朝鮮王朝中期に、勲旧派(中央貴族層の既成官僚)が在地両班層の新進官僚の士林(サリム,사림)派を士禍(サファ,사화)と呼ばれる弾圧の後、士林派が1565年に政権を掌握。

しかし1565年に士林派は、東人と西人に分裂しました。

西暦 国王 朝廷の党争
1565 第13代 明宗 東人(トンイン)/改革派 西人(ソイン)/保守派
1575 第14代 宣祖 西人の対応を巡って分裂 勢力を失う
1592-98
文禄・慶長の役
南人(ナミン,남인)/穏健派 政権担当/柳成龍金誠一 北人(プギン,북인)/強硬派
1600 失脚 政権奪取
1608 第15代 光海君 大北/光海君擁立派 小北/反光海君派
1623 第16代 仁祖 勢力を失う 光海君を廃し西人政権奪取

※東人、西人、南人、北人の呼称は、各派の所在地が東、西、南、北に集中していたことから生じました。

文禄・慶長の役における派閥

東人(トンイン,동인) 改革派

領議政(宰相)柳成龍、前領議政 李山海(イ・サンヘ,이산해)、通信副使 金誠一大司憲 李徳馨(イドキョン,이덕형)、慶尚道巡察使 金睟(キムス,김수)、全羅左水使 李舜臣など。

西人(ソイン,서인) 保守派

左議政(副首相)尹斗寿(ユ・ドウス,윤두수)、兵曹判書 黄廷彧(ファンジョンウク,황정욱)、通信正使 黄允吉(ファン・ユンギル,황윤길)、慶尚右水使 元均など。

解説

韓流ドラマ&時代劇はドロドロしていて、それが魅力の一つなのですが、かつては誇張かと思って観ていました。しかし文禄慶長の役を学ぶにつれ、朝鮮朝廷は国外だけでなく、国内においても党争という名の大戦争を戦っていました。

逆に言えば党争を理解していないと、本役の理解にも影響が出てくるので、ここで押さえておきましょう。

李舜臣

李舜臣李舜臣は改革派の東人で、左議政柳成龍によって異例の階級七段跳びで水軍司令官(全羅左水使)に任命されて、日本水軍を連戦撃破。

しかしその後、西人の尹斗寿(ユ・ドウス)と水軍将の元均に陥れられ、一時停戦時を白衣従軍(一兵卒)として過ごしました。慶長の役が始まり元均が日本水軍に敗退すると、現・南人で領議政の柳成龍によって水軍最高司令官(統制使)に任命され、再び表舞台に立ちました。

金誠一

戦争が始まる前に来日した通信副使で東人の金誠一。帰国後、反派閥・西人で通信正使の黄允吉(ホワン・ユンギル)が宣祖の前で「日本軍の出兵はある!」と言ったので自分は「ない!」と逆のことを言いました。

文禄の役が始まると、重い十字架を背負った金誠一は郭再祐を助け、彼と共に義兵を募り活躍しました。

光海君

宣祖末期、王位継承を巡って南人が破れて北人は大小に分かれ、大北は光海君を、小北は光海君の異母弟の永昌大君を支持。これにより永昌大君は死罪、その他光海君の親類・縁者等に多くの血が流れました。

即位した光海君は隣国の明と女真族の争いに心を砕き、この機を利用して、政権から久しくと遠ざかっていた西人が政権奪取に向けて動き出すのでした…

参考文献

朝鮮王朝

堂上下官科挙身分両班/党争

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