プロフィール
朝鮮王朝・水軍司令官(慶尚右水使)。
豊臣秀吉の命により朝鮮出兵した日本水軍を、全羅左水使・李舜臣と共に朝鮮水軍を率いて度々撃破。
しかし李舜臣との折り合い悪く、作戦を巡って衝突を繰り返す。
李舜臣が水軍最高司令官・統制使に任命されると、李舜臣を陥れ、自身が統制使に就任。
李舜臣が定めた制度は皆廃止、李舜臣の信任した副将、士卒も皆追放。日本軍再出兵、李舜臣なしで漆川梁(チルチョンリャン)に日本水軍に挑む――!
詳細
1.日本軍、朝鮮上陸
豊臣秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月一三日、小西行長を先鋒として日本の諸将が朝鮮へ侵攻。
釜山が陥落した時、朝鮮南東の海岸では慶尚左道の水軍節度使朴泓(バク・ホン)が持ち場を捨てて逃亡。
慶尚右道(キョンサンウド)の水軍節度使の元均(ウォン・ギュン)もまた、船と武器を沈めて慶尚右道南海岸に避難しました。
朝鮮水軍は、国王をトップとした秩序整然とした階級組織から成り立っていました。
水軍の最高司令官は通称・水使と呼ばれる水軍節度使(正三品)で、その下に僉使(従三品)、虞候(正四品)、万戸(従四品)などが置かれています。
朝鮮水軍司令官(文禄の役)
- 西海岸:全羅右水使・李億祺
- 南海岸:全羅左水使・李舜臣
- 東海岸:慶尚右水使・元均
2.玉浦海戦
全羅左水使李舜臣は、元均管轄の海域から南に位置する全羅左道の海域を死守していました。
しかし元均の来援を受け同年五月七日、李舜臣は全羅右水使・李億祺(イ・オクギ)と共に、七四隻の兵船を率いて朝鮮の海に現れました。
かくして李舜臣、李億祺、元均率いる朝鮮水軍は、元均管轄の慶尚水兵営がある巨済島(コジェド)北東・玉浦(オクポ)に停泊していた藤堂高虎率いる五〇余隻に大砲を浴びせました。
この奇襲に対し、藤堂高虎は二六隻を喪失しましたが、朝鮮水軍は一隻失ったのみ。この最初の海上戦は、朝鮮軍が日本軍に初めて勝利し、日本軍が朝鮮軍に初めて敗北した戦いとなりました。
玉浦開戦からおよそ二〇日後の泗川(サチョン)海戦では、李舜臣が考案したとされる亀甲船が功を奏して、日本水軍に再び大打撃を与えることに成功しました。
3.閑山島海戦
泗川海戦から一か月余り経った閑山島(ハンザンド)海戦では、日本水軍の将として脇坂安治が朝鮮水軍に挑みました。
李舜臣は、脇坂安治を見乃梁(キョンネリヤン)という細長い川のような狭い地形におとり船で日本水軍を誘(おび)き出す作戦を立てました。
しかし朝鮮水軍の連戦連勝に気持ちが大きくなってしまった元均は、直ちに見乃梁に出撃することを主張。このあたりから元均と李舜臣との対立が表面化していきます。
最終的には李舜臣の策に従った元均。李舜臣の策に引っかかった脇坂安治率いる日本水軍は、見乃梁を通り閑山島沖の広い海に出ました。
それを待ち構えていた朝鮮水軍の猛攻を受けた日本軍は五九隻の兵船を失い、再び敗北しました。
4.熊川開戦
陸上では平壌の戦いで小西行長が破れ、進路を後退し始める日本軍の退路を断つ為、釜山浦海戦から約半年後の文禄二年(1593)二月一〇日、朝鮮水軍は九鬼嘉隆・加藤嘉明ら拠る熊川の日本水軍を三月六日まで五回に渡って襲撃。
日本軍は多くの死者を出すことになり、朝鮮軍はまたも勝利しました。しかしこの熊川の戦いで、浅瀬に乗り上げてしまった味方の二つの兵船を元均配下の武将が救出しようとしなかったという事件がありました。
幸い全羅左虞候・李夢亀の兵船の突入によって救出されましたが、李舜臣は元均を咎めました。
5.統制使となる
熊川海戦から半年後、日本と朝鮮は休戦状態となり、日本軍の帰国が相次ぎました。
一方朝鮮朝廷は、李舜臣が元均と同じ身分では水軍をうまくまとめることができない為、李舜臣を慶尚・全羅・忠清三道をまとめる三道水軍統制使(以下、統制使と呼ぶ)に任命。
しかしこの人事の二か月後、元均は李舜臣を陥れ、朝廷にうまく取り入って元均が統制使となりました。これに加えて元均は、李舜臣が定めた制度を皆廃止、李舜臣の信任した副将、士卒も皆追放してしまいました。
6.権慄の杖罰を受ける
水軍を追われた李舜臣は獄に繋がれたあと、朝鮮全軍の司令官権慄の元で白衣将軍(一兵卒として従軍)として過ごしました。
日本軍朝鮮再出兵となり、統制使・元均が慶長二年(1597)六月に安骨浦・加徳島の日本軍を攻撃しましたが敗退。
七月に慶尚右水使・裵楔(ペソル)が、藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明ら日本水軍に敗退。この時、元均は出陣しませんでした。
権慄は、李舜臣を引きずり落として貴様は何なのだ!と元均をとがめ、杖罰を施し前進するよう命令しました。
7.漆川梁海戦
元均は憤懣(ふんまん)やるかたなく、漆川梁(チルチョンリャン)に帰り、毎日酒を飲んで、ろくに軍議もしませんでした。
同年七月一六日、日本水軍の大船団が急襲。
不意を衝かれた朝鮮水軍は大敗北を喫し、全羅右水使・李億祺が戦死。元均は陸地に逃れましたが、陸地で待ち伏せていた島津義弘軍の襲撃を受けて戦死。そして、李舜臣が作り上げた朝鮮水軍もこの一戦でほぼ壊滅してしまいました。
これにより李舜臣は統制使に復帰しますが、元均の大敗により手元に残された兵船は僅か一三隻。迫り来る日本水軍百三三隻。
李舜臣の奇跡の大逆襲がここから始まるのでした。
元均 相関図
朝鮮国
日本
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』(岩波書店、2012年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』(講談社、2002年)
- 柳成竜(著)・朴鐘鳴(翻訳)『懲毖録』(平凡社、1979年)