基本データ
概要
日本軍 約五〇〇隻
明・朝鮮連合水軍 約五〇〇隻
結果
日本軍:兵船二百隻損失、死者一万人前後。/明・朝鮮連合水軍:李舜臣、鄧子龍戦死。
解説
1.経緯
豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)、日本軍が朝鮮へ再侵攻。
緒戦は日本軍が優勢でしたが、次第に明・朝鮮連合軍に追い詰められ、翌年八月一八日に秀吉が死去。
これにより、徳川家康ら五大老、石田三成ら五奉行が朝鮮に出兵した日本軍に帰国せよと指示。
しかし一一月七日、明の水軍都督・陳璘が秀吉の喪を知ることになり、統制使・李舜臣と協議して、順天の小西行長の帰国の退路を断つことにしました。
行長は、西路大将・劉綖に多額の賄賂を贈って、撤兵の便宜を計ってくれるよう約束をかわしました。しかし一〇日、順天から出発しようとした行長が目にしたのは、松島の海峡を遮断しようとする敵の艦隊五〇〇余隻。
行長は約束違反の劉綖をなじりましたが、劉綖は退路遮断は李舜臣と陳璘によるもので自分の知るところではないと告げました。そこで行長は陳璘にも賄賂を贈り、陳璘が李舜臣に行長の撤退に協力するよう相談すると、李舜臣は激怒。更に李舜臣の元にも行長は賄賂を贈ろうとすると、李舜臣はこれを一蹴しました。
2.戦闘
朝鮮西部の倭城を拠点とした、島津義弘・立花宗茂・宗義智らは順天に行長が釘付けにされていると聴き、これを救援すべく同月一七日の夜、約五百隻の大船団で昌善島から露梁(ノリャン)に迫りました。
これに対して、陳璘と李舜臣は明・朝鮮軍合わせて約五百隻の兵船を左右に分けて夜襲をしかける作戦で日本軍を待機。 更に陳璘は、配下の副総兵・鄧子竜(としりゅう)を李舜臣と共同させました。
島津義弘率いる兵船が露梁津の海峡に至ると、明・朝鮮の水軍は左右から砲撃。
齢(よわい)七〇を超える鄧子竜は突撃しましたが戦死、二〇〇余人が倒されました。そして島津勢が発した銃弾が李舜臣の胸中に命中。李舜臣は自分の死を敵に悟られないよう、甥の李莞(イワン)に言い残して息絶えました。
陳璘の船が囲まれると、李莞が救援に向かいました。陳璘はこの時、初めて李舜臣が戦死したことを知り、「躍り出て伏すも三度、地を撃って大いに慟(なげ)き」ました。そして「一軍のものも皆慟哭し、その声が海を震わせ」ました。
この戦闘中、小西行長は順天から脱出。島津勢は多数の死傷者を出し、露梁海戦-朝鮮役の最後の戦いは明・朝鮮連合軍の大勝利に終わりました。
3.顛末
露梁海戦の最中、島津隊の樺山久高らの船が浅瀬に乗り上げ、南海島に上陸。海戦後、義弘が南海島の島津隊五〇〇人の救出を望み、行長が救出されたことの恩返しとして船を支度することとなりました。
こうして南海島の島津隊が五〇〇人全員救出されがゆえに、一見日本軍が勝利したようにも見えますが、敵はそんなに甘いものではありませんでした。南海島では明軍による敗残掃討作戦が行われ、日本兵を追い、容赦なく首をはね、崖から突き落としたのでした。