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戦国人物解説

陳璘(ちん-りん)李舜臣と共に最後の戦いに挑む明水軍都督

目次

プロフィール詳細相関図参考文献関連記事

プロフィール

陳リン
Chin Rin

の武将。水軍都督

日本軍朝鮮再出兵である慶長の役最中に、豊臣秀吉が伏見城で死去。

日本軍の帰国が始まると、朝鮮水軍司令官・李舜臣は、明水軍と連合を組んで日本軍を追撃すべく、明水軍の都督・陳璘を古今島で迎え入れる。

陳璘は猛将で問題の多い人物だったが、李舜臣と協力して、順天倭城小西行長の帰路を押さえる。

身動きの取れない行長の救援に、島津義弘らが率いる兵船が露梁海峡に至る。文禄・慶長の役の長い戦いに決着をつける――!

享年64(1543~1607)。同い年は堀尾吉晴家康柳成龍九鬼嘉隆と同世代。

詳細

1.後半戦にて初登場

広東韶関市翁源県
図1:翁源

陳璘は、韶州府翁源(現・中国広東省韶関市翁源県)の人。

豊臣秀吉豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)日本軍朝鮮へ再侵攻。緒戦は日本軍優勢でしたが、次第に劣勢となり蔚山の戦い後、日本全軍は一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。

明・朝鮮連合軍は日本軍迎撃から追撃に転換、こうした中、明水軍一万三千余人、艦隊五〇〇余隻が忠清道・唐津に初めて現れ、これを率いる大将が陳璘でした。

2.李舜臣との出遭い

慶長の役_主な戦い
図2:慶長の役_主な戦い

朝鮮水軍最高司令官李舜臣李舜臣は、明水軍と連合を組んで日本軍を追撃すべく、水軍都督陳璘を古今島で迎え入れました。

陳璘は猛将で問題の多い人物であたったため、李舜臣はを尽くして迎え、その後の戦功なども譲るようにしました。

そのような李舜臣に陳璘は次第に心を開き「統制使李舜臣は経天緯地の才と補天日の功がある人物(柳成龍懲毖録』)」と称賛しました。

3.順天の戦い

順天の戦い
図3:順天の戦い

秀吉死後翌月の慶長三年(1598)九月二〇日、明軍の劉綖と陳璘、朝鮮軍の権慄と李舜臣の連合軍は、小西行長小西行長籠る順天倭城を囲み、水陸から挟撃しました。

しかし日本軍の応戦激しく、多くの明兵を喪失すると、劉綖は戦意を喪失し作戦を遂行しませんでした。陳璘は、劉綖の戦意喪失と約束違反に激怒し、これを責めました。

陳璘は戦う気概はありましたが、引き潮になったことを告げた李舜臣の言葉も聴かず戦闘を続け、浅瀬に乗り上げてしまい、朝鮮水軍の足を引っ張る結果に。

順天倭城を落とすことができませんでしたが、秀吉が死去した情報を得た陳璘は李舜臣と協議して、小西行長の帰国の退路を断つことにしました。

4.露梁海戦

露梁の海戦
図4:露梁海戦

小西行長の救援に同年一一月、島津義弘島津義弘を筆頭に立花宗茂立花宗茂宗義智宗義智ら約五百隻の大船団が南海から露梁(ノリャン)に迫りました。

これに対して陳璘と李舜臣は明・朝鮮軍合わせて約五〇〇隻の兵船を左右に分けて夜襲をしかける作戦で日本軍を待機。

更に陳璘は、明水軍の副将・鄧子竜を李舜臣と共同させました。島津義弘率いる兵船が露梁津の海峡に至ると、明・朝鮮の水軍は左右から砲撃。

鄧子竜は突撃しましたが戦死、二〇〇余人が倒されました。そして島津勢が発した銃弾が李舜臣の胸中に命中。李舜臣は自分の死を敵に悟られないよう、甥の李莞(イワン)に言い残して息絶えました。

陳璘の船が囲まれると、李莞が救援に向かいました。陳璘はこのとき初めて李舜臣が戦死したことを知り「躍り出て伏すも三度、地を撃って大いに慟(なげ)き」ました。そして「一軍のものも皆慟哭し、その声が海を震わせ」ました。

この戦闘中、小西行長は順天から脱出しましたが島津勢は多数の死傷者を出し、こうして朝鮮役の最後の戦いは明・朝鮮連合水軍が日本水軍を撃破して終わりました。

戦後、陳璘は帰国し、露梁海戦の一〇年後に病死しました。享年六四

陳璘 相関図

明・朝鮮連合軍

日本

参考文献

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陳璘イラスト