基本データ
概要
陣容
黒田軍3,000余人及び毛利救援軍
明軍 4,000余人
結果
決着つかず、日暮れになって両軍引き上げ。
解説
1.経緯
豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)、日本軍が朝鮮へ再侵攻しました。
同年七月、藤堂高虎・脇坂安治らが漆川梁で元均率いる朝鮮水軍を撃破。
八月、宇喜多秀家を総帥とする左軍(小西行長・島津義弘ら)は慶尚道・南原城を落とし、大量殺戮と鼻切りを行いました。
一方、毛利秀元を総帥とする右軍の加藤清正・黒田長政らは慶尚道から北上して、首都ソウル再侵入を目指しました。
2.戦闘
明経略楊鎬はこの頃、平壌にいましたが、事態の深刻化を受けソウルに南下。
楊鎬は提督・麻貴がソウルを放棄する計画を知ると咎(とが)め、麻貴と作戦を定め、密かに騎士の精勇を選び、忠清道・稷山(チクサン)で日本軍を迎撃することにしました。
かくして楊鎬の指令を受けた精鋭騎兵部隊の解生(かいせい)・牛伯英・楊登山・頗貴ら2,000余人は、水原から稷山に至りました。
かくして九月七日、忠清道を目指し北上していた黒田図書助(官兵衛の弟)・栗山四郎右衛門ら黒田長政の先鋒隊と稷山で衝突。
黒田の先鋒隊は退却しましたが、後続の長政軍本隊三〇〇〇が到着し、また解生の部隊も援軍二〇〇〇を得て激戦を展開しました。明軍がやや優勢でしたが、毛利秀元の部隊が救援に駆け付け、明軍の側背に襲いかかりました。双方ともかなりの死傷者を出し、決着はつかず、日暮れになって両軍とも引き上げました。
朝鮮側はこの戦いにより、日本軍のソウル再侵入を阻止したものとして、平壌の戦い、幸州山城の戦いについで、稷山の戦いを朝鮮三大戦としました。