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文禄・慶長の役

稷山(チクサン/しょくざん)の戦い

慶長の役の流れ

慶長二年(1597) 慶長三年(1598)
日本軍北上 形勢逆転 日本軍南下 倭城に籠る 8月秀吉死去、続々と帰国 最後の戦い
7月中旬 8月中旬 9月初旬 同中旬 12月下旬 10月初旬 9~10月初旬 11月中旬
漆川梁海戦 南原の戦い 稷山の戦い 鳴梁海戦 蔚山の戦い 泗川の戦い 順天の戦い 露梁海戦

基本データ

稷山の戦い
年月日 慶長2年(1597)9月7日の夜明け
場所 忠清道 稷山の金鳥坪(クムオビョン)
概要 明軍、ソウル再侵入を目指す日本軍を阻止すべく、稷山で迎撃す
対戦軍 兵数 黒田軍3,000余人及び毛利救援軍 明軍 4,000余人
大将 黒田長政黒田長政 明経略 楊鎬(ようこう)
提督 麻貴(まき)
部隊 先鋒:黒田図書助(官兵衛の弟)・栗山四郎右衛門(黒田家の筆頭家老) 精鋭騎兵部隊:解生(かいせい)・牛伯英・楊登山・頗貴 以下2,000余人
本隊:黒田長政以下3,000人 援軍2,000人
救援軍:毛利秀元毛利秀元の部隊
勝敗 引き分け(決着つかず、日暮れになって両軍引き上げ)

解説

1.経緯

慶長の役日本軍進路図_右軍01
図5:慶長の役 日本軍進路図_右軍

豊臣秀吉豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)、日本軍朝鮮へ再侵攻しました。

同年七月、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治らが漆川梁元均率いる朝鮮水軍を撃破。

八月、宇喜多秀家宇喜多秀家を総帥とする左軍(小西行長・島津義弘ら)は慶尚道・南原城を落とし、大量殺戮と鼻切りを行いました。

一方、毛利秀元毛利秀元を総帥とする右軍の加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政らは慶尚道から北上して、首都ソウル再侵入を目指しました。

2.稷山の戦い

稷山の戦い
図2:稷山の戦い

明経略・楊鎬(ようこう)はこの頃、平壌にいましたが、事態の深刻化を受けソウルに南下。

楊鎬は提督・麻貴がソウルを放棄する計画を知ると咎(とが)め、麻貴と作戦を定め、密かに騎士の精勇を選び、忠清道・稷山(チクサン)で日本軍を迎撃することにしました。

かくして楊鎬の指令を受けた精鋭騎兵部隊の解生(かいせい)・牛伯英・楊登山・頗貴ら2,000余人は、水原から稷山に至りました。

かくして九月七日、忠清道を目指し北上していた黒田図書助(官兵衛の弟)・栗山四郎右衛門ら黒田長政の先鋒隊と稷山で衝突。

黒田の先鋒隊は退却しましたが、後続の長政軍本隊3,000が到着し、また解生の部隊も援軍2,000を得て激戦を展開しました。明軍がやや優勢でしたが、毛利秀元の部隊が救援に駆け付け、明軍の側背に襲いかかりました。双方ともかなりの死傷者を出し、決着はつかず、日暮れになって両軍とも引き上げました。

朝鮮側は、この戦いにより、日本軍のソウル再侵入を阻止したものとして、平壌の戦い幸州山城の戦いについで、稷山の戦いを朝鮮三大戦としました。

  

関連トピック

文禄・慶長の役

慶長の役 主な戦い

漆川梁海戦南原の戦い/稷山の戦い/鳴梁海戦蔚山の戦い泗川の戦い順天の戦い露梁海戦

文禄の役 主な戦い

玉浦海戦閑山島海戦第一次晋州城の戦い平壌の戦い碧蹄館の戦い

幸州山城の戦い第二次晋州城の戦い

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

朝鮮国 人物

王室:宣祖光海君/朝廷:柳成龍金誠一/陸軍:権慄金時敏沙也可

水軍:李舜臣李舜臣元均/義兵将:郭再祐/学者:姜沆

明国 人物

万暦帝沈惟敬李如松楊鎬劉綖陳璘

参考文献

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)