プロフィール
6歳年上のお江を妻に持つ恐妻家。上田合戦では真田昌幸・幸村父子に惨敗した結果、関ヶ原の戦いに遅参する。
詳細
1.将軍職を継ぐ
江戸幕府二代将軍の秀忠は、徳川家康の三男。母は家康の側室・西郷氏お愛の方。
幼名は長松、または竹千代。元服の際、秀吉から一字もらって秀忠と名乗りました。
家康の長男信康が自害、次男秀康(ひでやす)が豊臣秀吉の養子となって結城氏を継いだため、秀忠が将軍職を継ぐことになりました。
正室のお江は、秀忠より六歳年上で、秀忠とは三度目の結婚。秀忠は妻に生涯頭が上がらず、側室は持ちませんでした。それは奉公人に生ませた会津藩主・保科正之との対面も控えるほどでした。
2.関ヶ原の戦いに遅参
慶長五年(一六〇〇)、下野小山にて上方の石田三成の挙兵を聞くと、家康は東海道を、秀忠は東山道を通り、現地・関ヶ原で合流することになりました。
同年八月、信濃上田城の真田昌幸・幸村父子に通行を妨害され、無視すればよかったのですが、秀忠はここを攻めることにしました。
結果、真田軍二五〇〇に対し徳川軍三万八〇〇〇の軍勢がまさかの敗北。現地・関ヶ原には遅れて到着、天下分け目の戦いに参加すること叶わず、家康に大変叱責されました。
3.秀忠の政治
家康が征夷大将軍となり、娘の千姫は豊臣秀頼に嫁ぎ、慶長一〇年(1605)秀忠二七歳は将軍職を継承。
しかしこの時、実権はまだ駿府の大御所・家康にありました。大坂の陣では家康とともに出陣。大坂落城の翌年・元和二年(1616)三八歳の時に、家康七五歳がその生涯を閉じました。
家康没後、秀忠は初めて大名に対する領地宛行(あてがい)状を発給するなど独自の政治を敢行。また、広島城修築を理由に豊臣恩顧の武将・福島正則を改易するなど、一代の内に四一名の大名を改易しました。
娘の和子は後水尾(ごみずのお)天皇のもとへ入内させ、金地院崇伝が関与した紫衣事件を通して後水尾天皇を退位に追い込み、孫にあたる幼女(明正天皇)を即位させました。
対外政策については、中国以外の外国船を長崎・平戸に限定、武器輸出の禁止、海賊行為の禁を徹底。キリスト教に対しては家康の政策を引き継ぎ、弾圧を強めました。
同九年(1623)四五歳の時に長男・家光に将軍職を譲りましたが、大御所となって江戸城西ノ丸で実権を掌握。寛永九年(1632)五四歳で死去。生前は椿を愛し、鉄砲の名手であったと伝えられ、先年の発掘された墓には遺愛の鉄砲一艇が納められていました。
徳川秀忠 相関図
徳川氏
正室お江との子:二男五女
側女との子
- 保科正之(まさゆき):浄光院の子。はじめ保科正光の養子。会津藩(福島県)保科家初代。徳川家綱を補佐し藩政の基礎をかためた。享年六二
家臣
ライバル
改易処分 対象者
参考文献
- 山本博文「徳川秀忠」『国史大辞典11』(吉川弘文館、1990年)295-296頁
- 永原慶二 編『日本歴史大事典3』(小学館、2000年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「松平忠吉」294頁