戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 戦国武将一覧

戦国武将解説

徳川秀忠(とくがわ-ひでただ)

プロフィール

徳川秀忠
Hidetada Tokugawa

家康の三男で江戸幕府二代将軍。

奥さんは6歳年上のお江で、彼女には逆らえない、恐妻家。

上田合戦で真田昌幸幸村父子に惨敗した結果、関ヶ原の戦いに遅刻した過去は忘れてあげよう。

家康没後は福島正則をはじめ、41家を改易。武器輸出の禁止、海賊行為の禁など独自の政治手腕を発揮した。享年54(生1579-没1632)。同い年は毛利秀元

詳細

1.家康の三男、将軍職を継ぐ

江戸幕府2代将軍の徳川秀忠秀忠は、徳川家康徳川家康の三男。母は家康の側室・西郷氏お愛の方。

幼名は長松、または竹千代。元服の際、豊臣秀吉羽柴(豊臣)秀吉から1字もらって秀忠と名乗りました。

家康の長男・信康が自害、次男・秀康(ひでやす)が豊臣秀吉の養子となって結城氏を継いだ為、秀忠が将軍職を継ぐことになりました。

2.お江に頭が上がらない

秀忠の正室のお江(小督、江与)素材お江は、浅井長政浅井長政お市の方お市の三女で、淀殿(茶々)素材淀殿(茶々)お初(常高院)素材お初の妹です。

お江は秀忠より6歳年上で、秀忠とは三度目の結婚。秀忠はこの奥さんに生涯頭が上がらず、側室は持ちませんでした。それは奉公人に生ませた会津藩主・保科正之との対面も控える程でした。

3.関ヶ原の戦いに遅刻

さて、関ヶ原の戦い。下野小山にて上方の石田三成の挙兵を聞くと、家康は東海道を、秀忠は東山道を通り、現地・関ヶ原で合流することになりました。

しかし信濃上田城真田昌幸真田昌幸真田幸村幸村の父子に通行を妨害され、無視すればよかったのですが、真田を攻めることにしました。

結果、真田軍三千五百に対し徳川軍・三万八千の軍勢がまさかの敗北。おまけに現地・関ヶ原に遅れてしまい、天下分け目の戦いに参加することができず、家康にめちゃくちゃ怒られました。

4.大御所時代

家康が征夷大将軍となり、娘の千姫は豊臣秀頼豊臣秀頼に嫁ぎ、秀忠は1605年2代将軍を継承しました。しかしこの時、実権はまだ駿府の大御所・家康にありました。

大坂の陣では、家康とともに出陣。大坂落城、豊臣家が滅んだ、翌1616年に家康が死去しました。

5.秀忠の政治、スタート!

家康没後、秀忠は初めて大名に対する領地宛行(あてがい)状を発給するなど独自の政治を行いました。

また、広島城修築を理由に豊臣恩顧の武将・福島正則福島正則を改易するなど、一代の内に41名の大名を改易しました。

娘の和子は後水尾(ごみずのお)天皇のもとへ入内させ、金地院崇伝が関与した紫衣事件を通して後水尾天皇を退位に追い込み、孫にあたる幼女(明正天皇)を即位させました。

対外政策については、中国以外の外国船を長崎・平戸に限定、武器輸出の禁止、海賊行為の禁を徹底しました。キリスト教に対しては家康の政策を引き継ぎ、弾圧を強めました。

6.家光にバトンタッチ

1623年に長男・徳川家光家光に将軍職を譲りましたが、大御所となって江戸城西ノ丸で実権を掌握していました。1632年54歳で死去。生前は、椿を愛し、鉄砲の名手であったと伝えられ、先年の発掘された墓には遺愛の鉄砲一艇が納められていました。

徳川秀忠相関図

家族

お父さん:徳川家康徳川家康/奥さん:お江(小督、江与)素材お江/息子:徳川家光徳川家光

部下

金地院崇伝本願寺顕如林羅山本多正信

ライバル

関ヶ原の戦い:真田昌幸真田昌幸真田幸村幸村/大坂の陣:淀殿(茶々)素材淀殿(茶々)豊臣秀頼豊臣秀頼

秀忠に改易処分をくらった人々

福島正則福島正則金地院崇伝本願寺顕如林羅山本多正信

  

関連トピック

徳川秀忠

肖像素材イラスト家康家臣団上田城

参考文献

国史大辞典編集委員会 (著)『国史大辞典〈第11巻〉 』(吉川弘文館、1990年)

永原慶二 編『日本歴史大事典』(小学館、2000年)