プロフィール
明朝 第14代皇帝。姓名・朱翊鈞(しゅよくきん)。廟号・神宗(しんそう)。年号により万暦帝と呼ばれる。
僅か10歳で即位。宰相の張居正は、万暦帝を厳しく教育しつつ独裁政治を発揮。
張先生死後、反張派が台頭して聡明な万暦帝を規範の中に納めた。万暦帝はサボタージュでこれに対抗。
詳細
1.張居正の光と影
万暦帝は、明朝第一三代皇帝・隆慶(りゅうけい)帝の第三子。
隆慶帝の死去、内閣大学士の張居正(ちょう-きょせい)は、万暦帝の後見を巡る政争に乗じ、宰相・主席内閣大学士の高供(こうきょう)を蹴落して、宰相・主席内閣大学士の地位に就きました。
皇帝ナンバー2となった張居正四八歳は、僅か(数えで)一〇歳で即位した万暦帝を厳しく教育しつつ、その後一〇年宰相として独裁政治を発揮。その間、万暦帝は健気に張居正の厳しい指導の元、良き皇帝たらんと真面目に努力していました。
張居正は、倭寇の制圧やモンゴルとの和議を結んで軍事支出を抑え、北方前線に名将・李成梁(り-せいりょう:李如松の父)を起用し、国境の安寧も保ちました。また、地主階級を押さえて農民の負担を平均化し、全国的な検地を実施。これによって財政状況は久しぶりに好転しました。
しかし一方、反対者を押さえつけ、効率重視で一切の妥協を許さない厳格な張居正は、反派閥から見れば古の聖賢の教えを捨てた独裁者にしか見えませんでした。
2.皇帝のサボタージュ
改革の半ばの万暦一〇年(1582)張居正が五八歳で死去すると反張派が台頭。
反張派は二〇歳の万暦帝に、張は節約を旨としながら自身は贅沢な暮らしをしていたと訴えて、張居正の官階をはく奪、財産没収、その家族も流罪にしてしまいました。これにより万暦帝は政府の大権を回復。
しかし張居正の事件が決着すると、彼らの攻撃目標はただちに皇帝に向けられ、諌言という名のもとに皇帝は奢侈であり、怠惰であり、愛妃の鄭氏(ていひ)を寵愛し孝端皇后王氏を冷遇しているなど批判。
彼らは皇帝を彼らが設けた規範の中に納めてしまい、皇帝の個性を自由に発展させませんでした。一方、万暦帝は空前絶後の例となる二〇年にも及ぶ長期的なサボタージュでこれに対抗し、各種の儀礼に皇帝は出席しなくなりました。
3.次の宰相・申時行
張居正に代わって宰相・主席内閣大学士は、反張派の大学士・張四維(ちょうしい)が就任。
しかし張四維は急病を患い死去したため、張派の大学士・申時行(しんじこう)五〇歳が主席大学士となりました。申時行は、嘉靖四一年(1562)二八歳の時に進士第一で合格した人物。性格は謙虚で鷹揚、臣としての道をよくわきまえていました。
一方で下野した反張居正派の人々は、反中央政府の活発な言論活動を行い、彼らは東林党と呼ばれ、朝鮮での党争の始まりとほぼ時を同じくして、万暦中期以降の中国にも激しい政争の季節が訪れるのでした。
4.ヌルハチ、現る
黄河の氾濫は帝国の一大難題で、堤防が決壊するたびに、生命と財産の損失は記録しきれないほどでした。
宰相・申時行は、黄河治水専門家・潘季馴(はんきじゅん)に治水工事を任せると、彼は堤防の建て方に工夫をこらし、河水の道筋を変えて氾濫を抑えました。
ちょうどこの頃、万暦一五年(1587)万暦帝二五歳の時、中国東北地方の巡撫(じゅんぶ)は、建州衛の酋長が付近の部族を配下におさめていることに危機感を持ちました。
そこで酋長を討伐しようとしましたが、部下はこれに反対し論争に。申時行は巡撫と部下の仲裁者として調停に入り、これ以上論争の是非を追及しないよう言い渡しました。かくしてこの酋長は思うまま振る舞うこととなりました。この酋長の名はヌルハチ。のちに清の太祖となる人物でした。
5.マテオ・リッチ世界地図
マテオ・リッチ(1552-1610)は、イタリアのイエズス会宣教師。同会最初の中国伝道者で、中国文化の紹介者として活躍しました。
織田信長の歓待を受けた、同会東インド巡察師・ヴァリニャーノの適応方針に従い、中国語を修得。万暦一〇年(1582)マカオに至り入明。翌万暦帝に自鳴鐘、西洋琴などを献上。
『坤輿万国全図』(こんよばんこくぜんず)は、リッチと彼に師事した中国人・李之藻とともに北京で作成した中国最初の世界地図。同三〇年(1602)刊行。特徴は地名、国名など漢字表記、中国(および日本)が中央に描かれ、南半球に想像上の大きな陸地・墨瓦蠟泥加(メガラニカ)が広がっていることなど。
地図に「日本海」の表記が現れるのも『坤輿万国全図』が最初。こうして日本においても西洋製地図よりは馴染みやすく、模写され、江戸時代の地理学に大きな影響を与えました。
6.万暦三大征
明の平和が終わりを告げるかのように、万暦年間の半ば(1590年代)に辺境の諸戦争が勃発。
万暦二五年(1597)、貴州の土司(どし・少数民族の有力者)楊応龍(ようおうりゅう)の反乱がありましたが、鎮圧しました。
これに先立つ万暦二〇年(1592)に寧夏のモンゴル人将軍ボハイの乱と、豊臣秀吉の朝鮮侵略を合わせて、万暦三大征と言います。
秀吉の朝鮮侵攻前に明朝廷は、琉球久米村の福建人らの通報を通して、これを察知しました。
これら報に際し万暦帝二九歳は、六部と都察院に諭して曰く「祖宗(始祖洪武帝)は官を設け職を分け、これをして上下をまとめ、内廷と外廷を維(つな)げられた。根本原則は俱に存する。国家制度の係る攸(ところ)である。(中略)
卑しきを以て尊きを凌ぎ、或は新しきを以て旧(ふる)きをそしり、或いは下役を以て官長を罵(のの)り、或は外吏(地方官)を以て閣臣を排し、もって国これ紛紛(中略)内治挙らず外患次第に生じ、四夷交(こもご)も侵(おか)さんとする。(中略)
国の掟は明らかにして必ず軽々しく貸(ゆる)めず。仍(かさ)ねて行うに、南京・浙江・福建・滇(雲南省)、広東守督等衙門と与(とも)に、預め調度兵食の計を講じ、海港の守りを備え戒めよ。欽(つつし)むがよい。」と故(ことさら)に諭しました[註]。
文禄の役が起こった年(1592)に申時行は、皇帝の顧問として誰もが納得するかたちで継承問題を解決できなかったことを理由に辞職。万暦帝との仲は良好したが、人の非難にじっと耐えるといった域には達することができませんでした。
一方日本軍は、破竹の勢いで朝鮮の首都・漢城(ソウル)を制圧、更に北上し平壌も制圧。明の国境まで迫っており、もはや対岸の火事ではない明朝廷は、朝鮮に援軍を派遣することを決定。
提督・李如松は四万の明兵を率いて、小西行長が籠る平壌を奪回しました。
7.日明和議交渉
城を奪われた小西行長は明の外交家・沈惟敬と和議を進めました。これにより明の非公式使節(スパイ)謝用梓・徐一貫が来日。秀吉は肥前名護屋で彼らに和議七ヶ条を示しました。
その内容は、明の皇女を日本の天皇の后にすること、勘合貿易の復活など、万暦帝に見せられる内容ではありませんでした。
そこで沈惟敬と行長は、勝手に秀吉の降伏文書を作成。更に行長の家臣・内藤如安(じょあん)を日本の使節に仕立てました。秀吉が知るよしもない降伏文書を携えた如安は、万暦二二年(1594)一二月に北京に到着。三二歳の万暦帝に拝謁して恭順を誓いました。
8.沈惟敬の来日
明朝廷は、降伏文書が偽造であるとは露とも思わず、日本に冊封(さくほう)使節を派遣することを決定。
万暦二四(1596)年九月、冊封使正使・楊方亨、副使・沈惟敬が大坂城で秀吉に拝謁しました。秀吉は万暦帝が贈った王冠と赤の官服を身に着け、腹心の西笑承兌に万暦帝からの国書を読ませました。しかし、
「ここに特に爾(なんじ)を封じて日本国王となす」
という文言に秀吉は激怒。おまけに秀吉が提示した和議七ヶ条については何も触れられていません。ここに日本と明との和平交渉は決裂。日本軍再出兵を決定しました。
9.明軍の底力
明は日本の再出兵に際し、再び朝鮮へ援軍を派遣することを決定。
経略禦倭軍務総督に邢玠(けいかい)、経略(朝鮮軍務経理)に楊鎬、備倭総兵官に麻貴(まき)を任命。
楊鎬は日本軍ソウル再侵入を忠清道稷山で阻止し、また麻貴と朝鮮軍の権慄らと共に加藤清正・浅野幸長らが籠る蔚山倭城を六万の大軍で包囲して日本軍を苦しめました。
万暦二六年(1598)八月に秀吉が死去すると、明・朝鮮連合軍は迎撃戦から追撃戦に作戦を変更。
同年一一月、島津義弘ら約五百隻の大船団が南海から露梁に迫まると、これを水軍都督・陳璘が朝鮮水軍司令官・李舜臣と共に撃破。日本軍との長い戦いはここに幕を閉じました。
10.終わりの始まり
露梁海戦の活躍は、明朝最後の輝きだったかもしれません。
万暦四六年(1618)万暦帝五六歳の時、女真族の長・ヌルハチの清軍が対明攻撃を決意し、遼寧省撫順(ぶじゅん)を陥れました。
翌年、清の本拠地を撃破する為に楊鎬が明軍四七万を率いて出撃しましたが大雪のため、四万五千以上の兵を失い明軍は大敗(サルフの戦い)。その責任を問われて楊鎬は死刑に処せられました。
申時行がヌルハチを遊ばせておいた大失態に併せて、朝鮮の日本軍にかかずらっていたこともあって、明は早くから新興勢力・女真族の勢力を抑え込むことができませんでした。
また、文禄・慶長の役に戦費八〇〇万両を支出し、国庫が窮乏したので各地に鉱山を開きましたが、税吏の弊害が甚だしく民の恨みを招きました。万暦帝は、万暦二〇年(1620)に没しました。享年五八。『明史』に「明の亡ぶは、実は神宗に老いて亡ぶなり」とあります。
万暦帝没後二〇年後、ヌルハチが太祖となって清を建国。明は最後の漢民族の王朝となりました。
相関図
明国
東アジアの国王
宿敵
日本の秀吉と女真族のヌルハチ
補註
文献6第1巻128頁より明実録(「神宗実録」万暦一九年七月癸未)。張居正の万暦帝に対する厳しい教育の成果がここに達成されたか。
参考文献
- 黄仁宇『万暦十五年―1587「文明」の悲劇』(東方書店、1989年)
- 三好唯義『世界古地図コレクション』(河出書房新社:新装版、2014年)54-57頁、106-108頁
- 岸本美緒、宮嶋博史『世界の歴史 (12) 明清と李朝の時代』(中央公論社、1998年)
- 松本善海「万暦帝」中村栄孝 他『アジア歴史事典 第7巻』(平凡社、1961年)472-473頁
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』(講談社、2002年)