表
明朝 東アジア各国朝貢
国 | 貢期 | 北京への道程 | 進貢品 | 明から倍返し | |
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土産 | それ以外 | ||||
朝鮮王朝 | 一年三貢 | 陸路で正使・副使二人含む三〇人 | 金銀器皿、螺鈿(らでん)、貂皮(ちょうひ)、人参など。 | 金や銀を贈っていたが土産ではないので免除。 | 冊封により常服、ベルトなど国王儀礼セットのほか、書籍、陶磁器、薬など。 |
琉球王国 | 二年一貢 | 大唐船(頭号船)一艘、小唐船(二号船)一艘の二隻で100~150人/福建の琉球館到着後、正副使らが陸路で八八〇里(3,000km)離れた北京へ。 | 馬、硫黄、螺空(らかく,ヤコウ貝)、海巴(かいは,タカセ貝)、生熟夏布(せいじゅくかふ,芭蕉布)、磨刀石(まとうせき,といし)など。 | 日本産:刀、扇/東南アジア産:瑪瑙(めのお)、象牙、木香(もっこう)、丁香(ちょうこう)、蘇木(そぼく)、胡椒(こしょう)など。 | 同上。 |
日本 (勘合貿易) |
一〇年一貢 | 三隻。浙江省寧波(ニンポー)入港後、勘合の照合を受けて上陸、使節が上京。 | 鎧、剣、腰刀、鑓(やり)、屏風、水晶、貼金扇など。 | 琉球産の硫黄、東南アジア産の蘇木など。 | 白金、高級織物、銅銭などの儀礼的なもの、生糸、書籍、陶磁器、薬など。 |
解説
1.概要
朝貢(ちょうこう)は、進貢(しんこう)とも呼ばれ、宗主国への進物の献上のことを言います。朝貢を簡単にいうと、中国が定めた規定に沿って皇帝へ贈るお中元やお歳暮みたいなもの[註1]。
東アジアでは、中国との周辺諸国との間において発達。皇帝へ周辺諸民族が朝見し、土産(どさん)の進物を献上して、直接支配が及ばない冊封(さくほう)と呼ばれる君臣関係を結んでいました。
朝貢といっても表のとおり各国一様ではありません。中国によって各国ごとに貢期や品目等は、細かく定められているのが特徴です。品目は基本的品にその国の土産ですが、それ以外の品もありました。
また中国は、朝貢国の進貢品以上の頒賜品(はんしひん)を反対給付する慣わしがありました。
2.朝貢貿易
朝貢関係は漢代の頃から始まり、唐代に成熟しましたが、宋・元代は朝貢関係よりも民間の商業ベースの交易が盛んになりました。
明朝は始祖の洪武帝から、民間の海外貿易を禁止する海禁策をしいて官営の独占貿易を図りました。これはアジア最大の市場であり輸出国であった中国にとって、また大小の交易相手国にとっても大問題。
そのため明朝は朝貢を促し、朝貢国は朝貢品とそれ以外の多くの商品を持ち込んで、決められた場所で合法的に貿易。これが朝貢貿易として発展していきました。
かくしてヨーロッパの大航海時代と期を同じくして明へ朝貢する国や部族の数は、朝鮮、日本、琉球、安南(アンナン:ベトナム)、カンボジア、暹羅(シャム:タイ)など最高一四〇にも及ぶこともありました。
3.勘合貿易
明第三代・永楽帝から、信頼関係の高い朝鮮・琉球以外は、勘合(かんごう)という貿易許可証を得て、朝貢関係を結びました。朝貢貿易の一つである勘合貿易は最初、明とタイで開始。
一方日本は、九世紀末の遣唐使廃止以来、朝貢貿易は途絶えたいました。明朝は倭寇対策の一環で日本を公式の貿易相手国とすることによって、倭寇の活動をおさえようとしました。
応永一一年(1404)足利義満は勘合を与えられ、勘合貿易が始まりました。天文一六年(1547)までに一七回、八四隻の遣明船が派遣。幕府船のほか、細川・大内などの守護大名船、大社船からなります。日本側の内部抗争によって勘合貿易が断絶すると、再び倭寇が活発化しました。
4.琉球王国
アジア一大中継交易拠点であった琉球王国は明に対し、合計一七一回進貢しています。これは二位の安南の八九回をはるかに引き離した断然一位でした。日本は一九回、マラッカ(マレーシア)は二三回です[註2]。
琉球王国の貢期は基本的に二年一貢、すなわち二年に一度の進貢のほかに、皇帝即位時などの臨時の入貢があり、連年のように進貢船が派遣されることも稀ではありませんでした。
また琉球王国の明への朝貢は、三十六姓と称される那覇久米村の福建人に支えられていた特徴があります。
補註
参考文献
- 高良倉吉・田名真之 [編]『図説 琉球王国(ふくろうの本)』(河出書房新社、1993年)
- 岸本美緒 ・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』(中央公論社、1998年)
- 安里進・田名真之・豊見山和行・西里喜行・高良倉吉『沖縄県の歴史(県史)』(山川出版社、2010年)