プロフィール
室町幕府・管領 細川氏庶流。明智光秀の元友人。丹後(京都府)田辺城主。
将軍足利義昭の臣下だったが、信長の臣下となる。本能寺の変の際は光秀に誘われたが、これを拒否。秀吉配下となった。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、田辺城に籠城したが西軍に囲まれてしまう。古今集秘事の伝統を受け継ぐ藤孝の危機に対して、後陽成天皇が動く――
詳細
1.芸達者
藤孝(幽斎)は、戦国きっての文化人。若くして歌道を志し、三条西実枝より古今和歌集の秘伝を受け、九条稙通より源氏物語の奥義を授けられました。
また茶道・音曲・刀剣鑑定・有職故実などあらゆるジャンルの学術・芸能のを極めました。
何故藤孝がそんなに芸達者なのか。藤孝の父は足利将軍家の幕臣である三淵晴員、母は学者の清原宣賢の娘であるため、遺伝的・環境的側面が大きいかと思います。
六〇過ぎでも和歌集や風土記を書き写す勉強家であり、武将としての職分もキッチリこなしました。カンペキ過ぎて人間味がない? 否、実は人間だっだのです(!)
2.将軍義輝、殺される
天文七年(1538)藤孝五歳は、一二代将軍足利義晴に謁見。翌年、義晴の命により幕府管領家庶流の叔父・元常の養子となりました。
藤孝の幼名は万吉ですが同一五年(1546)一三歳で元服すると、一三代将軍足利義藤(のちの義輝)から名前をもらって藤孝と名乗り、与一郎と称しました。
以後、側近として義輝に仕えますが松永久秀らに義輝が京都で暗殺されると、藤孝は米田監物らとともに奈良の興福寺に監禁されていた義輝の弟・足利義昭を救出。諸国を流浪することになりました。
そののち明智光秀と共謀して義昭の上洛を計画し、織田信長の援助を得て上洛に成功。永禄一一(1568)義昭三二歳は一五代将軍の座につきました。
しかし義昭と信長の関係がこじれ、天正元年(1573)義昭三七歳が信長四〇歳によって京都から追放されると、義昭の直臣である藤孝四〇歳は同年七月、義昭を見限って信長の家臣になりました。同年、信長より与えられた山城国(京都府)長岡の地を与えられ、苗字を一時長岡とも称しました。
3.石山の戦い
一方、藤孝は同年より近畿方面軍司令官の明智光秀の与力として、本願寺顕如率いる一向宗徒らと争いました。
同三年(1575)加賀一向一揆攻めに従軍。翌年荒木村重・藤孝・光秀らが摂津(大阪府)を攻撃するも、原田直政が雑賀(さいか)衆の鉄砲にあたり討死、苦戦を強いられました。同七年(1579)一二月ようやく顕如が降伏、翌年四月に石山本願寺を去りました(石山の戦い)。
4.本能寺の変
同八年(1580)丹後(京都府)一二万石が子の忠興に与えられ、藤孝も丹後に移りました。これでほっと一息かと思いきや、同一〇年(1582)六月、苦楽を共にしてきた光秀が本能寺で信長を討ちました。
藤孝は、光秀に味方になってほしいと誘われましたが拒否。剃髪して幽斎と名乗り、丹後田辺城に移りました。忠興の妻は光秀の娘・玉でしたが、忠興はこの妻と離婚して丹波国山中に玉を幽閉しました。
5.朝鮮出兵考察
豊臣秀吉の臣下として幽斎は九州征伐、小田原征伐に従軍。秀吉は日本を統一すると、今度は明国制圧のため朝鮮に侵攻を目論みました。武功夜話によれば前野長康との会話で幽斎は、
「今度の争場はそもそも大義もなく、仁愛もない軍事(いくさごと)。国を離れること数千里、たとえ勝利を得ても延々と見渡す限り皆敵である。」と反対の立場にいました。次に幽斎はこう言いました。
「関東、北越の三百有余万石を在国せしめ、九州、四国、中国の諸将を始め、御一門衆、譜代衆の無駄遣いは豊家凋落の禍(わざわい)ともなりかね、難しい合戦になるのではないか。」
今回の戦没で負担が重く、消耗するのは西国大名、豊臣家譜代の諸将。関東、北越すなわち、一兵も兵を出さない徳川家康、前田利家は損害をこうむる心配がない。
「しからば後日その勢強大になるものは何者か。」
幽斎にはこの戦争の結果と日本国内に及ぼす影響がほぼ見えていました。
幽斎のような先の見える人が多々ありながら大勢は、秀吉の望む征服戦争へと流れ込んでいきました。幽斎自身も名護屋に在陣、子の忠興に至っては渡海して第一次晋州城の戦いで大変苦しい戦いを強いられました。
6.田辺城の戦い
秀吉が死去し、文禄・慶長の役が幕を閉じ、迎える関ヶ原の戦い。東軍に属した幽斎は居城の田辺城に籠城。一万五千の西軍を六〇日にも渡って引きつける大功を立てました。
この際、西軍に包囲され幽斎の討死を心配した八丈宮智仁親王が、使者を遣わして開城を勧告。更に後陽成天皇も古今集秘事の伝統の絶えることを惜しみ、勅命をもって開城の叡旨(えいし:天子のお考え)をするよう伝えさせました。
芸は身を助けるとはこのことですね。そうそう、幽斎は武芸にも秀でていて、剣法は塚原卜伝に学び、弓馬故実を武田信豊から相伝され…ってもういい? 享年七七。
細川藤孝 相関図
細川氏
- 妻:マリア
- 長男:忠興
- 次男:興元(おきもと)
主君
交遊
参考文献
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役-空虚なる御陣』(福武書店、1989年)
- 二木謙一「細川藤孝」『国史大辞典12』(吉川弘文館、1979年)740頁
- 久田宗也 編『茶の湯用語集(茶の湯案内シリーズ12)』(主婦の友社、1986年)