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戦国人物解説

足利義昭(あしかが-よしあき)スポンサー(信長)の言うことを聞かない室町将軍

目次

プロフィール詳細:1.流浪の日々 2.将軍邸の造営

3.一七カ条の異見書 4.信玄西上 5.謙信、立ち上がる

6.輝元、立ち上がる 7.晩年相関図参考文献関連記事

プロフィール

足利義昭
Yshiaki Ashikaga

一五代室町将軍にして室町ラストエンペラー。

一三代将軍の兄義輝松永久秀たちに殺され、流浪の日々を送っていたが、織田信長というスポンサーを見つけて将軍となる。

信長とは持ちつ持たれつのいい関係だったが、次第に険悪に。ケンカを売っているとしか思えない一七カ条の異見書まで突き付けられる。

自分は飾りにすぎないと悟って、石山合戦で途中から本願寺側につき、信玄謙信毛利輝元などにも働きかけ、信長を追い詰めてゆく――!

在職(15681573)/享年61(1537-1597)。

信長より3歳年下。同い年は秀吉景轍玄蘇権慄。秀吉とは没年も同じ。

詳細

1.流浪の日々

足利義昭義昭は、一二代将軍義晴の二男として京に生まれました。天文一一年(1542)六歳の時に興福寺一乗院に入室し覚慶(かくけい)と称し、永禄五年(1562)同院門跡(もんぜき:主僧)となりました。

同八年(1565)松永久秀たちが、兄の一三代将軍義輝を殺して、その跡目に従弟の義栄(よしひで)を擁立すると、覚慶二九歳は幽閉されてしまいました。

義輝の御供衆細川藤孝細川藤孝が脱出させ、ともに近江(滋賀県)に逃れて、同九年(1566)還俗して義秋(よしあき)と名乗りました。さらに朝倉義景朝倉義景の一乗谷に身を寄せ、同一一年(1568)四月義景の館で元服して義昭と名乗りました。

将軍になりたい義昭は、全国の大名に自分を京に復帰させるよう書状を送りました。岐阜の織田信長織田信長にも手紙を送りました。

信長は中央の実権を握るため将軍の権力を必要としていたので、承諾の返書を義昭に送りました。かくして信長の武力と財力を持って、寺院の僧になっていた義昭は同年六月、三二歳の時に一五代将軍に就任しました。

2.将軍邸の造営

同年一二年(1569)二月、信長は義昭のために、側近の村井貞勝に命じて将軍邸の造営にとりかかりました。

この将軍邸(二条城)は二条の地に築かれ、御殿は金銀で装飾。庭は泉水や遣水や築山を造ったうえに、細川藤賢邸にあった藤戸(ふじと)石という大石を運び入れました。

その運搬には信長自身が指揮し、石を綾錦で包み、色々の花で飾り、笛・太鼓・鼓で囃し立て賑やかに運んだと言います。

3.一七カ条の異見書

互いの利害が一致し、良好だった義昭と信長の二人の関係。しかし次第に悪化していきました。

信長はまだ将軍の権力が必要だったので、義昭との関係回復につとめましたが、義昭にその気はありません。そんな義昭を見かねて元亀三年(1572)九月に信長は、

将軍として(正親町天皇正親町)天皇への奉仕を怠っている、諸国の大名に馬など物をねだってみっともない、御内書(室町将軍発給文書)には信長の副状(そえじょう)を出すといった以前の約束を守っていない、元亀が不吉なので改元を申し入れたのにその費用を進上しないで改元を遅らせている、忠節の者に恩賞を与えないでさしたる忠節のない者に扶持を加えたり寺社領を没収したり、信長と昵懇(じっこん)の者を疎んじたりしている、信長との戦争に備えて貴重な什物(じゅうもつ:器具)を京都から避難させているとの噂で、戦争がおこるかと京都の人々が騒いでいるがどこへ移るつもりか、城米を金銀に換えているとのことだが「公方様御商売の儀」は今まで聞いたことがない、義昭近侍のものが金銀を蓄えているのも牢人の仕度をしているのであろう

…など一七カ条の異見書(いけんしょ)を義昭に叩きつけました。

4.信玄西上

反信長包囲網_勢力図
図1:反信長包囲網_勢力図

元亀元年以降、本願寺顕如は各地の門徒(一向宗徒)に指示して「仏敵信長」と戦っていました。義昭は「異見書」以降、本願寺方として動き出しました。

一方、天台宗総本山延暦寺焼き討ちなど信長の振る舞いは、代々天台宗を信仰してきた武田信玄武田信玄の怒りもかっていました。

義昭は信玄に上洛を促し、同三年(1572)一二月、信長の同盟軍である徳川家康徳川家康を三方ヶ原で破った信玄は、北条方の援軍を合わせて三万の大軍をもって西上。

信玄の快進撃に快くした義昭は二月、文書で浅井長政浅井長政・朝倉義景に挙兵の意思を表明し、将軍邸をかためました。

信長は義昭に和議を求めましたが、義昭が応じなかったため天正元年(1573)四月二日・三日に将軍邸(二条城)を包囲。一二日、信玄が信州駒場で病死。二八日、義昭は信長と和睦しましたが、打倒信長と再び挙兵しました。

5.謙信、立ち上がる

戦国大名(畿内周辺)勢力図_元亀年間
図2:戦国大名(畿内周辺)勢力図_元亀年間

同年六月、我慢も限界に達した信長四〇歳は、義昭三七歳を京から追放。足利尊氏から始まり二三八年間の歴史を刻んだ室町幕府がここに幕を閉じました。

京を追われた義昭は反織田方の三好義継の河内(大阪府)若江城に居ましたが、一一月にここを出て堺に移りました。

一方の信長は、義昭が将軍職を全うすべく意気込んでいた年号元亀(げんき)を天正(1573~)に改元させました。

信長は信玄西上を恐れ、上杉謙信上杉謙信と同盟していましたが、天正四年(1576)謙信四七歳は信長四三歳との同盟を絶ち、能登に侵攻。信長が義昭を追放したことに腹を立てて信長討伐を決心したのでした。

謙信は、翌年九月に能登七尾城を落とし、加賀に進駐した織田軍と加賀の湊川(手取川)で戦い撃破。毛利輝元毛利輝元と連合して信長と対決しようとしましたが、同六年(1578)三月、春日山城にて病死しました。

6.輝元、立ち上がる

義昭は堺に移ったあと、紀伊(兵庫県)由良から天正四年(1576)二月に毛利領の備後(広島県)鞆(とも:福山市)に移りました。

義昭四〇歳を迎えた輝元二四歳は、石山本願寺と結んで信長との対決を決意。輝元の名は元服した際に足利義輝から一字賜ったものでした。

同年七月、木津川口で織田水軍を破って石山城に兵糧を運び入れることに成功。しかし謙信死去した同六年一一月、再び織田水軍に挑むも九鬼嘉隆九鬼嘉隆率いる甲鉄船に敗れました。

7.晩年

義昭は京から追放されも義昭は将軍であり続けました。

信長死後は、関白豊臣秀吉豊臣秀吉と御所に参内。准三后(じゅん‐さんごう)となり、在職二〇年にも及ぶ将軍職を辞職しましたが、ようやく京に戻ることが許され一万与えられました。

文禄元年(1592)朝鮮出兵の際には、肥前名護屋に出陣。慶長二年に病死しました。享年六一

信長との関係が悪化し、直臣・細川藤孝も離れていったなどの理由により、文献2はじめ後世評価されているとは言いがたい義昭。しかしそれは織田側からの話。信長に付き合っていられる大名はそう多くはありません。

義昭が幕府存続のため各地の大名の働きかけ、信長の天下統一を遅らせたことは事実なのではないでしょうか。

足利義昭 相関図

足利氏将軍家

  • 曾祖父:政知。義政(8代)の弟で堀越公方。享年五七
  • 祖父:義澄(11代)享年三二
  • 父:義晴(12代)享年四〇、母:慶寿院
  • 兄:義輝(13代)享年三〇
  • 従弟(父義晴の兄・義維の子):義栄(14代)享年三一
  • 子:義尋、義在ほか

出家していた政知は、兄・義政の命令で還俗。関東に下るも鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりごえ:静岡県)に拠った。堀越公方・政知死後、子の義澄一一代が将軍となり、以降一五代義昭まで義澄の系統。

織田政権

反信長の仲間たち

「よしあき」繋がり

参考文献

  1. 池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館、2012)
  2. 谷口克広『信長の政略-信長は中世をどこまで破壊したか』(学研パブリッシング、2013年)
  3. 羽生道央「足利義昭」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)187頁
  4. 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「足利義昭」49頁
  5. 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)
  6. 小和田哲男「足利氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)71-76頁

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