プロフィール
信長の次男。信長最大の失敗作にして最高傑作?
父信長と兄信忠死後は、弟信孝と家督を争い、秀吉側について弟を自刃に追い込んだ。
小牧・長久手の戦いでは家康と組んで、秀吉の天下取りに待ったをかけた。しかし信雄が秀吉と勝手に和睦を結び、家康大勝利に泥を塗る。
結局、秀吉とも折り合いわるく、尾張・伊勢から下野国に流されてしまうが、信長遺児として、ここで終われない!?
詳細
1.石山合戦
信雄は織田信長の次男で、母は生駒氏。兄は一つ年上の信忠、弟は信孝(のぶたか)。
優秀だけど短命だった兄信忠と弟信孝の間にあって、次男信雄とはどんな人物だったのでしょうか。
永禄一二年(1569)信雄一二歳は、信長は南伊勢の国司・北畠氏を攻め、信雄を北畠具房の養子として大河内城を譲らせました。
石山合戦において天正二年(1574)信雄一七歳は伊勢長島一向一揆の平定、そのあと雑賀衆の討伐、荒木村重の反乱の平定などに従いました。
同七年(1579)九月、信雄二二歳は石山包囲戦最中に勝手に伊賀に出陣。一戦に及んで味方の柘植三郎左衛門らを討ち死にさせるなど、作戦は失敗に終わりました。
これを父信長は叱責のうえ、教え諭しました。再び兵を出して、伊賀を平定し伊賀三郡を与えられました。
2.清州会議
天正一〇年(1582)六月、本能寺の変で父信長が明智光秀に討たれると、織田家の後継者を決める清州会議が尾張(愛知県)清州城で開かれました。兄信忠は本能寺の変のあと二条御所で光秀に討たれたため、次男信雄は弟信孝と跡目を争いました。
この二人で決着をつけるのは返って混乱を招くとして、山崎で光秀を倒した羽柴秀吉の推す信忠の子・三法師(秀信)が織田家の跡目に決まりました。
清州会議の結果に満足いかなかった信孝は、柴田勝家や滝川一益と組んで秀吉と戦いました(賤ヶ岳の戦い)。秀吉側についた信雄は信孝の岐阜城を攻め、ついには尾張・野間で信孝を自刃させました。
3.小牧・長久手の戦い
秀吉にとってこれで目の上のコブは、自分に従わない徳川家康と、清州会議の結果に満足いったわけではない信雄の二人となりました。
秀吉は信雄付きの家老三人を調略し手なずけましたが、信雄は三家老の内通を知り、成敗してしまいました。ここで信雄は秀吉と敵対し、家康に挙兵の応援を要請。
秀吉が天下を取ることに賛同できない家康にとって、これは渡りに船。信長の遺児に歯向かう不届き者という大義名分を掲げて家康は兵を出すことができたのでした。かくして天正一二年(1584)四月、信雄・家康連合軍は秀吉軍と小牧・長久手で争うことになりました。
この戦いで秀吉軍は池田恒興、森長可が敗死し苦戦を強いられて、家康軍が大勝利を収めました。しかし家康の知らない間に信雄二七歳が秀吉四八歳と講和。
秀吉が連合軍と対峙する時、信雄の北伊勢を自分の支配下に収めたため、焦った信雄は北伊勢を返すという秀吉の和睦に乗せられ、降伏に近い状態で懐柔させられてしまいました。
信雄が和睦してしまい、大義名分を失った家康四三歳は自らもやむなく和解しました。
4.尾張・伊勢を失う
秀吉に服属した信雄は、天正一八年(1590)小田原城(北条氏政と氏直)を攻めました。小田原城が落城すると秀吉は家康を関東に移し、信雄を家康の旧領に国替えしようとしましたが、信雄は尾張・伊勢にとどまることを望み、これを拒否。
これにより秀吉の怒りを買った信雄は、佐竹氏(義宣)の預かりとなり下野国烏山に流され剃髪しました。翌年には出羽秋田に移りましたが、家康の斡旋により許されて文禄元年、文禄の役の日本本営肥前名護屋に赴き相伴衆に加えられました。そのあと大坂天満の邸を住まいとしました。
5.まだ生きてる!
とうとう豊臣の人間として人生をまっとうするのかと思いきや、慶長五年(1600)石田三成が家康討伐の軍を起こそうとした時は、家康に通報。同一九年大坂の陣では豊臣秀頼から招かれましたが応せず、家康と通じ、戦後は家康から大和・上野に五万石与えられました。
そして叔父の有楽斎に茶道を学び、茶を楽しんで大坂の陣から一五年後の寛永七年京都で没しました。享年七三。
スタイリッシュ過ぎて『ゆるキャラの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3』でお馴染みクワコーを彷彿させます。
織田信雄 相関図
織田氏
ライバル
お世話になりっぱなし
参考文献
- 今井林太郎「織田信雄」『国史大辞典2』(吉川弘文館、1980年)847-848頁
- 池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館、2012)
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)