細川氏:ほそかわし
摂津(大阪府)の守護・戦国大名。近世の大名(外様)。清和源氏。足利尊氏の挙兵には一族で従い、室町幕府が成立すると嫡流は管領(かんれい)となり、畠山・斯波氏とともに三管領と称されました。しかし畠山・斯波は内輪もめにより衰退。
一方、応仁の乱東軍の将・細川勝元の子・政元は、一〇代将軍義稙を廃し、義澄を新将軍に据えました。これにより将軍の権威は完全に失墜、幕府の主導権は細川氏に移りました。しかしその政元も内部の対立から暗殺され、幕府の実権は管領家細川氏からその家臣三好長慶に移りました。
江戸時代、細川氏庶流であった忠興の子の忠利が熊本藩主細川家初代。のち同藩から親族に分与された藩が立ち、幕末に至りました。
系譜
- 足利義康(よしやす):源義国の子。下野(栃木県)足利荘を本拠とし、足利氏の祖となる。
- 細川義季(よしすえ):義康曾孫。三河額田郡(愛知県岡崎市)細川郷にうつり、細川氏を名乗る。
- 細川頼春(よりはる):義季曾孫。公頼(きんより)の子。足利尊氏に従い転戦。南朝方と戦い戦死。享年五四
幕府管領・京兆家:嫡流
京兆(けいちょう)とは、左京大夫・右京大夫の別称。二代・頼元(右京大夫)を参照のこと。
- 頼之(よりゆき):頼春の子。足利尊氏に従い南北朝と戦う。幕府管領となり、幼少の将軍・義満を補佐。のちに諸将に疎まれ、失脚。享年六四
- 頼元:頼春の子。兄頼之の養嗣子。右京大夫(右京職の長官)となり、以後当家惣領が同官途を踏襲、京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる。享年五五
- 満元(みつもと):頼元の子。摂津、丹波守護。将軍足利義持をたすけ幕府の安定化に努めた。享年四九
- 持之(もちゆき):満元の子。嘉吉の乱で将軍足利義教が赤松満佑に殺されると、幼少の義勝を将軍とし、満佑を討った。享年四三
- 勝元:持之の子。応仁の乱東軍の将として山名宗全と戦う。陣中で病死。享年四四
- 政元:勝元の子。一〇代将軍足利義植(義材)を廃立(明応の政変)。堀越公方・足利政知の子・義澄を将軍にたてて管領、将軍を傀儡とするまでに至る。修験道にこって政務を家臣にまかせ、養子の澄之・澄元の家督争いで澄之派の香西(こうざい)元長らに殺された。以下養子の三人(7~9代)。
- 澄之(すみゆき):九条政基の子。養父政元四二歳を暗殺して家督を継ぐ。享年一九
- 澄元(すみとも):義春の子。澄之を高国らと共に滅ぼす。享年三二
- 高国:永正五年(1508)澄元を追放し、前将軍義植を将軍に復帰させて管領。享年四八
- 晴元:澄元の子。高国を滅ぼし、惣領家を継ぐが三好長慶らに追放された。享年五〇
- 氏綱:天文一七年(1548)三好長慶とくみ、晴元らを京都から追う。最後の管領。
- 昭元(あきもと):晴元の子。足利義昭に重用され、信長に仕える。信長の妹お犬と結婚した。享年四五
和泉守護家:庶流
- 頼有(よりあり):義季曾孫・頼春の子。備後守護。兄頼之とともに山名時熙(ときひろ:宗全の父)を追討。
- 頼長(よりなが):頼有から家督を継ぎ、和泉守護家初代。
- 藤孝:幽斎。三淵晴員次男。叔父 細川元常(もとね)の養子。足利義昭を救出して共に諸国を流浪。
熊本藩/近世
- 護熙(もりひろ):日本新党結成。平成五年(1993)八月内閣総理大臣、翌年四月に辞任。母方の祖父は近衛文麿。
諸藩/近世
- 行孝(ゆきたか):忠利の甥。熊本藩二代藩主光尚(みつなお)から三万石を分与され、肥後宇土藩主細川家初代。
- 興元(おきもと):忠興の弟。常陸(茨城県)谷田部(やたべ)藩主細川家初代。一万六二〇〇石
- 利重(とししげ):忠利の孫。兄の三代熊本藩主綱利(つなとし)から三万五〇〇〇石を分与され、熊本新田藩細川家初代。
参考文献
- 小和田哲男「細川氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)575-580頁
- 佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖『詳説日本史研究』(山川出版社、2017年)「4.戦国大名の登場_第五章 武家社会の成長」214頁
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