プロフィール
大和国(奈良県)の戦国大名。
芸術家気質なこともあり最強の自由人。
応仁の乱がおこると、足利将軍家は実権を完全に喪失。幕府の実権は、管領家細川氏から、その家臣三好長慶に移り、さらに長慶の家臣久秀へと移っていった。
長慶死後は三好三人衆(一族)と協力し、一三代将軍・足利義輝を殺害。しかし三人衆と対立。東大寺の大仏殿に陣を敷いた三人衆と戦い勝利したが、大仏殿も一緒に焼失させてしまう。
しかもこれに留まらず、顕如と信長の泥沼合戦・石山の戦いに発展する――?!
詳細
1.将軍暗殺
久秀の出身地については阿波(徳島県)、山城(京都府)、摂津(大阪・兵庫)など所説あり、またその後の経緯も不明です。
さて、応仁の乱に始まった戦国の争乱のなか、各地方では地域に根をおろした実力のある支配者が台頭。足利義視の子・義稙(よしたね)が一〇代将軍につくも、将軍を補佐する管領・細川政元と対立し、明応二年(1493)将軍の地位を追われました(明応の政変)。
政元は堀越公方政知の子・義澄を新将軍に据えました。この政変によって将軍の権威は、完全に失墜。室町幕府における主導権は細川氏の手に移りましたが、政元も細川氏内部の対立から暗殺されました。
久秀は、管領・細川晴元の重臣であった三好長慶(ながよし)に仕えました。そのあと家老となり、大和国(奈良県)に信貴山(しぎさん)城、多門山(たもんやま)城を築き、大和国を勢力下に治めました。
長慶は主家の晴元を追放して幕府の実権を握り、信長上洛前に、畿内近国に一大勢力を形成。しかし相次ぐ長慶の実弟・実子の死で政権は弱体化しました。
長慶死後は、甥の三好義継(よしつぐ)が家督を継ぎましたが、その実権は一族の三好三人衆(三好長逸・政康および岩成友通)と久秀に握られました。
永禄八年(1565)久秀(五六歳?)は三好三人衆と協力して、一三代将軍・足利義輝を暗殺。その跡継ぎに義輝従弟の義栄(よしひで)を擁しました。
2.大仏殿焼失
然しながら久秀は三人衆と合わず、袂を分かち三好義継を擁しました。同一〇年(1567)一〇月一〇日、東大寺に陣を置いた三人衆と抗戦。久秀は勝利を収めましたが、このとき東大寺の大仏殿が焼失しました。
その様子を、興福寺の学侶・多門院英俊が同日付で日記に書き遺しています。
「丑の剋(うしのこく:深夜二時頃)に大仏殿たちまちに焼けおわんぬ(焼けてしまった)、猛火(もうか)天に密(み)つ、さながら雷電(らいでん)のごとし、一時(いっとき)に頓滅(とんめつ)しおわんぬ(急にほろんでしまった)(多門院日記)」
翌年、義栄は征夷大将軍に就任するも、信長が義輝の弟足利義昭を擁して上洛すると阿波に逃れました。一方久秀は信長の配下となり大和を支配しました。
3.石山合戦
元亀元年(1570)七月、三年前に敗北した三人衆は畿内での力を取り戻そうと、阿波を出て石山本願寺のある摂津に入りました。その数七、八千。これを討伐するため信長は八月、数二万~六万の兵を従え岐阜を出発。
これに将軍義昭、三好義継と久秀なども加わりました。則ち石山合戦の始まりは、久秀の三人衆との抗争に起因するともいえるでしょう。
翌二年(1571)三月、三好義継と久秀・久通父子が信長への敵対行動をあらわにしました。
義昭は支援者であった信長と次第に対立し、天正元年(1573)六月信長は義昭を京から追放しました。追放された義昭は、三好義継の河内(大阪府)若江城に居ましたが、一一月にこの城を出て堺に移りました。
若江城の義継二五歳は佐久間信盛らの攻撃を受け、一六日に自害。大和多聞城に立て籠もっていた久秀は、信長が命を奪うことを惜しみ、久秀は服属して城を明け渡し、大和信貴山城を安堵されました。
4.信長に謀反
石山合戦はその後も続き、天正四年(1576)四月において久秀(六七歳?)は、雑賀衆の鉄砲に苦戦を強いられる織田方として奮戦。石山の戦いで織田軍は、比叡山焼き討ちや長島一向一揆勢男女併せて二万人を火をかけて殺すなどしていました。
同五年(1577)八月一七日、対本願寺の付城(つけしろ)である天王寺砦に定番として詰めていた久秀・久通(ひさみち)父子が謀反を企て、方々にいた兵を集め、信貴山城にたてこもるという「大事件」が起きました。
信長は久秀が何故離反したのか、松井友閑(信長側近)をもって尋ねようとしましたが、久秀は答えません。久秀は日蓮宗の信者でキリシタンが大嫌いでしたが、信長は来日した宣教師にキリスト布教の許可を与えました。そんなこともあり、信長の下にいることがだんだん嫌になってきました。
九月、信長は長男信忠を総大将として、数万騎をもってこれを攻めさせました。誰が見ても落城は明らかで、降伏条件は信長が欲しがっていた平蜘蛛の茶釜を差し出すことでした。
この茶釜は、外側に蜘蛛の絵が鋳つけてあり、また火にかけ釜がたぎると蜘蛛がはいまわるように見える名物。一〇月一〇日、久秀は降伏条件を退け、天守にのぼり、平蜘蛛の釜を割って爆死しました。
この日は奇しくも一〇年前の永禄一〇年(1567)、久秀が三好三人衆との戦いで東大寺大仏殿を焼失させた日と同じでした。またこの焼失により、秀吉が京都の東山に大仏を建立するに至りました。
5.進歩的文化人
平蜘蛛を所有していたことからも明らかなとおり、久秀は数寄大名の先駆け。茶の湯だけでなく、久秀の多聞山城は天守閣の先駆で、信長の安土城天守閣も多聞山城を参考にして築城されたといわれています。
そもそも茶は健康にもいいですが、茶とは別の健康法として久秀は、家中の者に守らせてるために男女の営みの指導書をこと細かいに記しました。
松永久秀 相関図
- 父母:不明、子:久通ほか
三好氏
- 五代:元長
- 六代:長慶。元長長男。
- 七代:義継。長慶の弟・一存の子。
長慶の弟
- 三好義賢:実休(じっきゅう)。畠山軍の反抗で戦死。享年三七。子は長治、存保(まさやす)。
- 安宅冬康(あたぎ-ふゆやす):久秀の謀略で、兄長慶に殺された。享年三七。
- 十河一存(そごう-かずまさ):鬼十河と称される猛将。永禄四年死去。子は義継、養子に存保。
三好三人衆
- 三好政康(まさやす):五代元長のいとこ。一説に秀吉・秀頼に仕え、大坂落城で戦死(八八歳)。
- 三好長逸(ながゆき):五代元長と政康のいとこ。天正元年(1573)の敗走以降は不明。
- 岩成友通(いわなり-ともみち):細川氏家臣。同年八月二日、山城淀城にて細川藤孝らの軍勢のために敗死。
諸国
参考文献
- 佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖『詳説日本史研究』(山川出版社、2017年)「4.戦国大名の登場_第五章 武家社会の成長」214頁
- 河内将芳『秀吉の大仏造立(シリーズ権力者と仏教)』(法蔵館、2008年)「はじめに」3頁
- 羽生道英「松永久秀」 『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)162-163頁
- 池上裕子『織田信長(人物叢書)』吉川弘文館、2012年)
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)
- 「岩成友通」『人物リファレンス事典』(日外アソシエーツ、1990年)76頁
- 「三好三人衆」『国史大辞典13』(吉川弘文館、1992年 )540-541頁