プロフィール

大和国(奈良県)の戦国大名。
芸術家気質なこともあり最強の自由人。
元・三好長慶の家臣で、長慶死後は三好三人衆(一族)と協力し、将軍・足利義輝を殺害。
しかし三人衆と対立して、東大寺の大仏殿に陣を敷いた三人衆と戦い勝利したが、大仏殿も一緒に焼失させてしまう。
しかもこれに終わらず、顕如と信長の泥沼合戦・石山の戦いに発展する――?!
詳細
1.将軍暗殺

久秀の出身地については阿波(徳島県)、山城(京都府)、摂津(大阪・兵庫)など所説あり、またその後の経緯も不明ですが、管領・細川晴元の臣であった三好長慶(ながよし)に仕えました。
そのあと家老となり、大和国(奈良県)に信貴山(しぎさん)城、多門山(たもんやま)城を築き、大和国を勢力下に治めました。
長慶は主家の晴元を追放して、幕府の実権を握り、畿内・四国一〇ヵ国を支配下におさめました。しかし相次ぐ実弟・実子の死で政権は弱体化。
長慶死後は、長慶養子の義継(よしつぐ)が家督を継ぎましたが、その実権は一族の三好三人衆(三好長逸(ながゆき)三好政康(まさやす)岩成友通(いわなり-ともみち))と久秀に握られました。
永禄八年(1565)久秀(五六歳?)は三好三人衆と協力して、足利義輝(よしてる)将軍を暗殺。その跡目に義輝従弟の義栄(よしひで)を擁しました。
2.大仏殿焼失
然しながら久秀は三人衆と合わず、袂を分かち義継を擁しました。同一〇年(1567)一〇月一〇日、東大寺に陣を置いた三人衆と抗戦。久秀は勝利を収めましたが、このとき東大寺の大仏殿が焼失しました。
翌年、義栄は征夷大将軍に就任するも、義輝の弟足利義昭を擁して
織田信長が上洛すると阿波に逃れました。一方久秀は信長の配下となり大和を支配しました。
3.石山合戦
元亀元年(1570)七月、三年前に敗北した三人衆は畿内での力を取り戻そうと、阿波を出て、石山本願寺のある摂津に入りました。その数、七、八千。これを討伐するため信長は八月、数二万~六万の兵を従え岐阜を出発。
これに将軍義昭、三好義継、久秀なども加わりました。則ち石山合戦の始まりは、久秀の三人衆との抗争に起因するともいえるでしょう。
翌二年(1571)三月、義継と久秀・久通父子が信長への敵対行動をあらわにしました。
義昭は支援者であった信長と次第に対立し、天正元年(1573)六月信長は義昭を京から追放しました。追放された義昭は、三好義継の河内(大阪府)若江城に居ましたが、一一月にこの城を出て堺に移りました。
若江城の義継は佐久間信盛らの攻撃を受け、一六日に自害しました。大和多聞城に立て籠もっていた久秀は、信長が命を奪うことを惜しみ、久秀は服属して城を明け渡し、大和信貴山城を安堵されました。
4.信長に謀反
石山合戦はその後も続き、天正四年(1576)四月において久秀(六七歳?)は、雑賀衆の鉄砲に苦戦を強いられる織田方として奮戦。石山の戦いで織田軍は、比叡山焼き討ちや長島一向一揆勢男女併せて二万人を火をかけて殺すなどしていました。
同五年(1577)八月一七日、対本願寺の付城(つけしろ)である天王寺砦に定番として詰めていた久秀・久通(ひさみち)父子が謀反を企て、方々にいた兵を集め、信貴山城にたてこもるという「大事件」が起きました。
信長は久秀が何故離反したのか、松井友閑(信長側近)をもって尋ねようとしましたが、久秀は答えません。久秀は日蓮宗の信者でキリシタンが大嫌いでしたが、信長は来日した宣教師にキリスト布教の許可を与えました。そんなこともあり、信長の下にいることがだんだん嫌になってきました。
九月、信長は長男信忠を総大将として、数万騎をもってこれを攻めさせました。誰が見ても落城は明らかで、降伏条件は信長が欲しがっていた平蜘蛛の茶釜を差し出すことでした。
この茶釜は、外側に蜘蛛の絵が鋳つけてあり、また火にかけ釜がたぎると蜘蛛がはいまわるように見える名物。一〇月一〇日、久秀は降伏条件を退け、天守にのぼり、平蜘蛛の釜を割って爆死しました。
この日は奇しくも一〇年前の永禄一〇年(1567)、久秀が三好三人衆との戦いで東大寺大仏殿を焼失させた日と同じでした。
5.進歩的文化人
平蜘蛛を所有していたことからも明らかなとおり、久秀は数寄大名の先駆け。茶の湯だけでなく、久秀の多聞山城は天守閣の先駆で、信長の安土城天守閣も多聞山城を参考にして築城されたといわれています。
そもそも茶は健康にもいいですが、茶とは別の健康法として久秀は、家中の者に守らせてるために男女の営みの指導書をこと細かいに記しました。
松永久秀 相関図
ライバル
信長を裏切った他の武将
参考文献
- 羽生道英「松永久秀」 『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)162-163頁
- 池上裕子『織田信長(人物叢書)』吉川弘文館、2012年)
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)