プロフィール
近江(滋賀県)坂本城主。通称・十兵衛。惟任(これとう)日向守と称す。
謀反人代表。けだし忠とは何か、真面目に三〇分も考えたことがありますか。
足利義昭を細川藤孝と共に織田信長に引き合わせたのをキッカケに、中途採用で信長に仕える。
鉄砲の名手であり、和歌を詠ませても一流。主君信長は新しいモノ好きだけど、自分は有職故実の方が好き。そっからしてソリが合わない!?
詳細
1.前半生も謎
周知のとおり光秀が、信長を裏切った理由は謎に包まれています。生い立ちについても、美濃土岐氏の一族と伝わりますが定かではありません。
はじめ一三代将軍足利義輝の代からの幕臣だったようで、義輝弟の足利義昭を細川藤孝と共に信長に引き合わせたのをキッカケに永禄九年(1566)信長に仕えることになりました。
2.延暦寺焼き討ち
元亀元年(1570)七月に石山本願寺顕如二八歳は、同年に姉川の戦いで信長に敗北した浅井長政・ 朝倉義景と手を結び、同年一〇月、浅井・朝倉は本願寺の指示どおり三万の軍を従え、比叡山に陣を敷きました。
光秀は信長の浅井・朝倉攻めに従軍、同二年(1571)一〇月に織田軍は門前坂本より比叡山上にかけて放火と殺戮を行いました。
天正元年(1573)七月、信長は浅井・朝倉攻めるため湖北に侵攻。八月に義景、九月に長政が自害しました。
浅井氏の旧領・近江国志賀郡(琵琶湖南西岸一帯)は光秀に与えられ、坂本に築城することになりました。
坂本は港町にして京に至る陸上交通の要所で、また安土城の近くでもあり、信長が光秀を高く買っていたのがうかがえます。またこの時期、秀吉ですら領地はなく、野戦部隊長であるにすぎませんでした。
3.近畿方面軍司令官
天正元年(1573)信長は足利義昭を京から追放した際、光秀は信長方に従軍し、同年より主として丹波(京都)攻略を担当、その司令官として出陣しました。
比叡山延暦寺焼き討ち後も顕如との戦い(石山合戦)は続き、同三年(1575)加賀一向一揆攻めに従軍。翌年には荒木村重・細川藤孝・光秀らが摂津(大阪)を攻撃するも、原田直政が雑賀(さいか)衆の鉄砲にあたり討死。苦戦を強いられました。
同七年(1579)一二月ようやく顕如が降伏、翌年四月に石山本願寺を去りました。
4.敵は本能寺にあり
一〇年にもおよぶ石山の戦いが終わったのも束の間、同一〇年(1582)六月、光秀が西国に出陣すると見せかけて、主君信長を本能寺で討ちます。
則ち「敵は本能寺にあり」という語は、本当の目的・目標は別にあるという意味です。
ある記録によると、光秀は本能寺で信長を滅ぼした二日後の天正一〇年(1582)六月四日付で、光秀は朝廷から征夷大将軍宣下の勅命を伝達されていました。
また本能寺の変の先陣は、光秀娘婿の明智光満(ひでみつ)がつとめました。
5.何故裏切ったのか
光秀の裏切りについての理由は、いろいろな説がありはっきりしません。
信長の下で様々な侮辱を受けたことによる怨念説から、宣教師ルイス・フロイスの本国宛ての手紙に曰く「明智は卑しい生まれの者で、策略に富んでいた。日本国王になれないかと考えて信長を殺した」など。
また信長は、四国全土を欲する土佐の長宗我部元親を快く思わず、三男信孝を四国に派遣することを決定。これは、これまで元親の取次役を担ってきた光秀を不安に陥れるものでした。
このように理由など探せばいくらでも出てくると逆に、何故裏切ったのか、という問い立て自体、如何なものなのでしょう。
「何の目的のためなのか」とか「どんな理由からそうなのか」というのは「最も悪質な因果律の暴政」であり、時代遅れの功利主義の観念[文献1]と言えるでしょう。光秀の行動に対してどこか合理的主義的な動機を押し付けているような気がしなくもないです。
6.山崎の戦い
毛利軍と交戦中の羽柴秀吉のもとに光秀謀反の報せが届くと、秀吉は毛利氏との和解を取り付け、同月六日に備中(岡山市)高松から京へ向かって駆け出しました[図2]。
天候わるいなかを一日一万三〇〇〇もの兵を率いて、一日100キロ走る「中国返し」。一三日の山崎においての開戦時には二万七千の大軍となりました。
一方の光秀軍は一万三〇〇〇。重臣・斎藤利三(としみつ)は、約二〇〇〇の兵力を持ち光秀にとって武力ならず精神的にもかなり頼りにしていました。その斎藤隊が崩れると、これが引き金となって明智軍は次々と崩れました。同日、光秀は敗走中に土民の竹槍に倒れました。
7.忠とは何か
娘婿の明智光満は安土城を守備していましたが、山崎の戦いの敗報を受けて近江坂本城に入り、光秀の妻子らを刺殺して自害しました。
再び抽象的な話になりますが、そもそも忠とは何でしょう。これは自明ではなく、まずは経書(儒教の経典)にあたり学ばねばなりません。
上の者の言うことを黙ってきくだけでは、ただ従う者(論語 先進24)則ち言いなり。また孔子は(元主君を討った齊の桓公に仕える)管仲の政治手腕を評価(論語 憲問17,18)しています。
果たして光秀を倒した秀吉は、忠となりえたでしょうか。ちなみに斎藤利三の末娘は、春日局です。
明智光秀 相関図
明智氏
- 父:光綱
- 妻:熙子(ひろこ:妻木範熙の娘)
娘婿
- 1.の明智光満室は、はじめ荒木村重の子・村次の妻。
家臣
- 斎藤利三、脇坂安治
織田氏
諸国の武将
山崎の戦い 敵軍
信長を裏切った武将たち
DVD
唐沢寿明といえば利家ではなく光秀。というのはへそ曲がりかもしれませんが「明智光秀~神に愛されなかった男~」は、光秀の魅力がたくさん詰まった秀作。光秀の正室である・ひろ子も、とても素敵な女性に描かれており、その辺りも見どころです。
参考文献
- ホイジンガ(著)、高橋英夫(翻訳)『ホモ・ルーデンス』( 中央公論新社、1973年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)
- 羽生道英「明智光秀」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)166-167頁
- 『戦国覇王』戦国大名篇(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)
- 「山崎の戦い」奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)126-131頁