文禄の役 日本軍 近畿勢
武将名(居城)動員数(人)
第九軍 11,500
諸隊 12,000
- 中川秀政(播磨三木)3,000
- 宮部長煕(因幡鳥取)2,000
- 南条元清(伯耆岩倉)1,500、稲葉貞道(美濃郡上)1,400、亀井茲矩(因幡鹿野)、木下重賢(播磨若桜)850、赤松広通(但馬竹田)800、明石則実(播磨明石)800、別所吉治(丹波園部)500、垣屋恒総(因幡浦住木山)400
朝鮮奉行 7,200
解説
第九軍および諸隊
文禄・慶長の役では、主に九州の大名を中心とした西国の大名が動員されました。
近畿地方の武将が主力となって戦うことはありませんが、第九軍の細川忠興(丹後宮津)は英雄・金時敏と晋州城で死闘を繰り広げました。
諸隊として、中国東部から近畿東部の諸大名が渡海[註]。また赤松広通(但馬竹田)はのちに、慶長の役 で捕らわれた朝鮮の学者・姜沆の帰国を藤原惺窩と共に助けました。
朝鮮奉行
主力の日本軍の多くは文禄元年(1592)四月に渡海。三ヵ月ほど遅れて朝鮮奉行の石田三成(近江佐和山)・大谷吉継(越前府中)らが首都ソウル(漢城)に着陣。朝鮮奉行の目的は秀吉の言伝と日本軍の監察でしたが、既に追い詰められた日本軍の即戦力として戦うことになります。
大大名・豊臣秀保
この頃、近畿地方南部一帯を治めていたのは豊臣秀長の養子・秀保(ひでやす)。秀吉の弟・秀長は、朝鮮侵攻反対派の筆頭格でしたが天正一九年(1591)一月に死去。秀長の遺領は秀保が譲り受けました。
その中に紀伊国の海賊衆があり、翌年文禄の役が始まると秀長の家老だった藤堂高虎が一四歳の秀保の名代として、紀伊国の海賊衆を率いて朝鮮へ渡海しました。
参考文献
- 児玉幸多 編集『日本史年表・地図』(吉川弘文館、2016年)
- 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
補註
文献3第1巻167頁「浅野家文書」(刊本八一 年月日欠 唐入軍勢進発次第書)唐入り道行きの次第によれば、十番は二月二一日より一日違いで稲葉衆、伯耆衆、但馬衆、十一番は二月一五日より一日違いで丹後の少将殿(細川忠興)、越前衆、若狭衆とある。則ち渡海後の行き先がはっきりしない近畿勢諸隊の大名においては、細川隊に属し第一次晋州城の戦いに参戦した可能性もあるだろう。