足利氏:あしかがし
室町幕府の将軍。鎌倉公方。清和源氏。源義国の孫・義康が、下野(しもつけ:栃木県)足利荘(しょう)を本拠としたことに始まります。
義康の子・義兼は源平の争乱に源頼朝に従い、北条政子の妹を妻とし、以後代々北条氏と姻戚関係を結び、上総(かずさ)三河両国の守護として鎌倉幕府に重きをなしました。尊氏のとき征夷大将軍となり幕府をひらき、三代義満のときが全盛期。
六代義教(よしのり)が嘉吉(かきつ)の乱で暗殺されるころには、権勢も衰退。八代義政のときには応仁の乱がおこり、実権を完全に喪失。信長によって擁立された一五代義昭も京都を追われ、幕府は滅亡しました。
系図
平安後期~鎌倉時代
- 源義国(よしくに):源義家三男。長男義重は新田氏、次男義康は足利氏の祖。
- 足利義康:義国次男。足利氏の祖。
- 義兼:足利学校の創設者という。長男義純は畠山氏の祖、次男義助は承久の乱で戦死。
- 義氏:義兼三男。享年六六。
- 泰氏:母は北条泰時の娘、妻は北条時頼の妹で北条氏と深い繋がりをもつ。享年五五。長男家氏は斯波氏の祖、末子の公深(こうしん)は一色氏の祖。
- 頼氏:泰氏の子。享年二三
- 家時:頼氏の子。尊氏の祖父。
- 貞氏(さだうじ):家時の子。享年五九
南北朝時代
- 尊氏:貞氏の子。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の元弘(げんこう)の乱で、幕府軍につくも討幕に転ず。のち建武政権にそむき、天皇方に敗れ一時九州に逃れるも、楠木正成をやぶって京に入り、光明天皇(北朝)を擁立。幕府ひらき征夷大将軍。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で弟直義(ただよし)を討つ。享年五四。
- 義詮(よしあきら):尊氏の子。新田義貞の鎌倉攻めに参加。南朝軍を撃退して政権を安定させた。享年三八
- 義満:義詮長男。一一歳で将軍職を継ぐ。南北朝内乱を統一し、幕府の全盛期を築く。応永元年(1395)子の義持に将軍を譲って太政大臣、翌年出家。北山に山荘を営み金閣をつくる。明に入貢、勘合貿易をひらき、日本国王として冊封を受ける。北山殿。法号は鹿苑院(ろくおんいん)。享年五一
室町時代中期
- 義持(よしもち):義満長男。九歳で将軍職を継ぐ。父の在世中は実権なく、その死後斯波義将(よしまさ)らの支持で政務をとる。父への太上(だいじょう)天皇号辞退、明との貿易を中止。享年四三
- 義量(よしかず):義持の子。応永三〇年(1423)父が将軍職を辞し、在職二年で死去。享年一九
- 義教(よしのり):義満の子。同三五年(1428)兄義持の死後、くじにより後継者に選ばれ、還俗して将軍。執念深い性格で、恐怖政治を行う。諸将の不満と不安を招き、所領問題で義教に不満を抱いていた有力守護・赤松満佑父子に、嘉吉(かきつ)元年六月に殺害された(嘉吉の乱)。享年四八
- 義勝:義教長男。母は日野重子。父が殺されたため、管領細川持之に擁立されて九歳で将軍、在職一年で死去。享年一〇
応仁の乱(応仁・文明の乱)
- 義政:義教の子。母は日野重子。畠山持国、細川勝元らの宿老中心の政治をきらい、遊興にふける。応仁の乱の最中に義尚に将軍職を譲る。銀閣寺、水墨画、能楽、生け花など東山文化を生み出した。享年五六
- 日野富子:義政の妻。子の義尚を次の将軍にすべく山名宗全とむすび、義政の弟義視をおす細川勝元とあらそい、応仁の乱を引き起こす。義尚が将軍になると、幕政に関与。高利貸し、関所新設による関銭の徴収などで蓄財をはかる。享年五七
- 義視(よしみ):義教一〇男。浄土寺門跡(もんぜき)を継いだが、還俗して兄義政の後継。その直後義政に実子義尚が誕生、応仁の乱の一因になる。乱の終結直後に義政と和睦。享年五三
- 義尚(よしなお):義政長男。母は日野富子。八代将軍義政が後継を弟義視としたのちに生まれたため、義視と家督争いが起こり、応仁の乱の一因となる。九歳で将軍となるが政務は義政が執った。享年二五
- 義稙(よしたね):義視の子。義尚死後、伯母日野富子らにおされて将軍職を継ぐ。明応二年(1493)細川政元の反乱で将軍を廃されたが、大内義興(よしおき)、細川高国の支援で復した。のち高国と対立し京都に逃れて淡路、阿波(徳島県)とうつり島公方と呼ばれた。享年五八。初名義材(よしき)、のち義尹(よしただ)。
戦国時代:堀越公方系統
- 政知(まさとも):義教三男。義政の弟。出家していたが、義政の命で還俗。古河公方に対抗する鎌倉公方となるため関東に下る。しかし鎌倉に入れず、伊豆の堀越(ほりごえ:静岡県)を拠点にしたため、堀越公方と呼ばれた。享年五七
- 茶々丸:政知長男。二代堀越公方。北条早雲に伊豆の堀越御所を急襲されて自害。
- 義澄:政知次男。一〇代将軍義稙が、細川政元の反乱により追放されると、還俗して将軍になる。永正四年(1507)政元が暗殺され、五年義稙が援軍とともに京都に迫ると近江に逃れた。享年三二
- 義晴:義澄の子。将軍義稙が京都から淡路に逃れたのち、大永元年(1522)細川高国に擁立されて一一歳で将軍。享年四〇
- 義維(よしつな):義澄の子、義晴の弟。阿波に逃れた義稙の養子となる。同七年(1510)三好元長に擁立されて和泉(大阪府)堺にうつり、畿内の実権を握るが享禄五年(1532)元長が敗死したため阿波平島に帰る。平島御所、平島公方、阿波公方と呼ばれた。享年六五
参考文献
- 小和田哲男「足利氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)71-76頁