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文禄・慶長の役

冊封使とは 明使節を迎える琉球国王と秀吉

目次

明 万暦帝期の冊封使冊封使とは

琉球王国冊封の歴史文化交流即位式

冊封を受ける秀吉補註参考文献関連記事

万暦帝期の冊封使

琉球中山王 来球年 冊封使 官職 本籍 冊封使著作
尚永 万暦七(天正七:1579) 正使:肅崇業 戸科左給事中 雲南籍応天上元 『使琉球録』
副使:謝杰 行人司行人 福建長楽 『日東交市記』『撮要補遣』『虔台倭簒』
尚寧 万暦三四(慶長一一:1606) 正使:夏子陽 兵科右給事中 江西王山 『使琉球録』
副使:王士禎 行人司行人 山東泗水 -
日本国王 来日年 冊封使 官職 本籍 冊封使著作
豊臣秀吉 万暦二四(後陽成天皇慶長元:1596) 正使:楊方亨 五軍営右副将署都督僉事 雲南南寧 -
副使:沈惟敬 外交家(京営添住遊撃) 浙江嘉興 -

冊封使とは

冊封使(さくほうし,さっぽうし)とは、冊封のため中国皇帝の命を受けて周辺各国にへ赴いた使者のこと。

その任務は、先代の国王の霊を慰める儀礼(諭祭:ゆさい)と、その後継者たる世子を新国王に封ずる儀礼(冊封)という、二つの重要な儀式を執行することでした。

その意味で冊封使は、中華帝国の伝統的な華夷(かい)秩序に基づく外交理念としての冊封体制を、はるか夷国の最前線で支える外交官の役割を担っていました。

また冊封を受けた国は、朝貢として土産等を中国皇帝へ献上するため、使節が北京に赴きました。

琉球王国

冊封の歴史

琉球王国では中山王(ちゅうざんおう)武寧(ぶねい)の冊封(1404)に始まり、最後の王・尚泰(しょうたい)(1866)までの四六〇年間余に合計二一回の冊封が行われました。明朝の時代には二七名の冊封正使・副使らの名前が知られています。彼らは北京から福建、海を越えて琉球に渡りました。

文化交流

冊封使節団の規模は五〇〇前後、多いときには六四九名にも及び、琉球での滞在期間もおよそ四カ月から六ヵ月の長期に渡りました。

使節団の中には詩、書画、音楽、医学など様々な分野に秀でた人物が従客として随行。冊封使や従客たちの交流が琉球に与えた文化的影響は少なくありません[1]。

また冊封使たちは皇帝への復命報告を行うために、のとおり琉球での見聞などを記録にまとめて残すことがあります。これらは冊封使録と呼ばれています。

即位式

新しい国王の即位式典に相当する冊封は、一世一代の国家的儀礼にふさわしく、首里城の正殿前の広場に家臣団を集め、厳かに挙行されました。

式典当日は、那覇の天使館から首里城へ向けて、冊封使一行の華やかな大行列が沿道の人々の熱い視線を浴びながら、ゆっくり進みました。ちなみに琉球国王の「尚姓」も皇帝から賜りました。

冊封を受ける秀吉

琉球王国と違い、日本は中国と冊封関係にありませんが、皮肉にも中国を敵と見なした豊臣秀吉豊臣秀吉は冊封を受けました[2]。

朝鮮侵攻の最中、和議のため、万暦帝の命を受け冊封使の正使・楊方亨と副使・沈惟敬一行が来日。彼らは慶長元年九月一日に大坂城で秀吉に拝謁。

翌日、冊封使節歓迎の宴が開かれ、徳川家康徳川家康前田利家前田利家も出席。秀吉は万暦帝が贈った王冠赤の官服を身に着け、腹心の五山僧・西笑承兌西笑承兌に明皇帝からの国書を読ませました。しかし、

「ここに特に爾(なんじ)を封じて日本国王となす」

という文言に秀吉は激怒。日本国王を大明皇帝を読み替えてほしいと、小西行長小西行長は予め承兌に頼みましたが、承兌はそのまんま読み上げました。

ここに日本と明との和議交渉は決裂。日本軍朝鮮再出兵が決定されました。そもそも冊封使を何だと思っていたのだろうか。

補註

  1. 朝鮮通信使は琉球は通らないが、彼等が江戸時代日本にもたらした文化的影響もやはり少なくなかった。また那覇久米村には唐人を中心に朝鮮人も住んでいた。
  2. 冊封を受けた日本人として(辞典などによれば)三世紀の卑弥呼、五世紀の倭の五王、室町初期の足利義満などとされている。秀吉が入っておらず、逆にいいのだろうか。ともあれ冊封を受けた日本人は稀である。

参考文献

関連記事

明官位相当表冊封朝貢・冊封使

琉球国久米村三十六姓文禄 諸大名配置図